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私と医療(月刊、新医療、2009年11月号、No.419,p 67 掲載文を一部修正)

 農家の長男に生まれましたたが、安定した生活、サラリーマン生活に憧れていました。高3の秋、母方の伯父が医学部に進学することを勧めてくれ、援助してもいいと申し出てくれたので医学部受験へ切り替え、運よく入学しました。
 大学1年の夏休み、両親が交通事故死するという事件が起こったのですが、仏教を大事にする温厚な伯父伯母達の庇護の元での生活で、勉学を続けることが出来ました。
 入学当初、学業についていけるかという不安はあったのですが、何とかついて行けそうだと感じられようになった3年の時、日本全国の大学を覆った学園紛争に巻きこまれました。卒業して医師にさえなれればよいと思っていたが、否応なく政治、経済、社会のこと等を考えざると得ない状況に追い込まれ、自分の考え、自分の具体的な行動が問われて、それまでのように傍観者でいることを許さない雰囲気の中で世間の厳しさを感じる事となりました。
 4年の時、剣道部の友人の入っている九大仏教青年会(仏青)の活動(診療所、夏の無医地区巡回診療等)や寮生活に惹かれ、部屋代が無料(食費は必要)ということもあり、なおかつ医学部の各学年で数名の入寮者がいることを知り入寮しました。 同じ釜の飯と食べるという先輩後輩の交わりができ、同世代の者が一緒にする寮生活は楽しいことの方がおおかった。
 仏青の寮にいたので、仏青の行事に参加していましたが、仏教にあまり関心はなく、寮にいるから活動に参加するという消極的会員でした。5年の時、仏青の総務という役職をすることになり、活動を考え、リードする立場になり、仏教とはどんなものか分からない私は戸惑いを感じていました。集団をまとめて行動をすることの大変さを痛切に感じながら取り組みました(今から考えると取り組みの不十分であったと反省されます)。
 そんな折、新聞の催し物の記事が目にとまった、福岡教育大学仏教研究会の案内でした。好奇心と野次馬根性で何でも見てみようと、福教大(現在の宗像市赤間町、福岡から車で約4,50分の距離)の近くの会場に向かった。化学の細川巌教授が先生自身の個人宅で仏教のお話をされていたのです。 初めて聞く仏教の話は非常に興味深いものでした。 なぜ化学の先生が仏教(浄土真宗)か?、話に惹かれるものがあったので、質問をしました、「仏教を知るためにはどうしたらよいでしょうか」と。すると先生は「毎月こういう会を開催していますから、1年続けて聞いてみませんか」と助言をしてくれました。これがその後の仏教への縁の始まりでした。
 大学卒業後、寮の先輩が外科にいたこともあって、深く考えずに外科を選んで消化器外科を中心にした道に進みました。外科はチームで仕事をすることが多く、先輩後輩の交わりもあり、よい雰囲気の職場でした。 大学医局のコースに乗って経験を積んでいきました。 39歳で国立中津病院の外科の責任者となり、責任の重さを実感しながら仕事をさせていただきました。
 外科では悪性腫瘍の手術もいろいろな経験することになります。 治療で治癒できた患者さんはよいのですが、進行癌や再発すると患者さんとの対応がどうもすっきりしたものになりません。そんなとき、埼玉医科大、哲学教授の秋月龍a師(禅宗の師家)の言葉に出会いました。 それは医学生に『皆さん方は将来、医療の仕事に携わるでしょう。 生老病死の四苦に取り組むということです。 仏教も2千数百年の歴史をもって同じ課題に取り組んで解決の方向性を見出しているのです。 同じことを課題とするのですから、医療に携わる人は是非とも仏教的素養を身につけて欲しい』と語りかけていたという内容であり、勇気づけられました。 その後、聞法を続けながら「医療と仏教の協力関係」に取り組みについて考えるようになりました。
 日本の医療現場で仕事をしてみて分かることは、医療の仕事に取り組むなかで仏教に触れることはほとんどないということです。 周りを見渡してみても医療関係者は仏教に関心(特に浄土教については)を持つことのない人たちの集団であると思われました。
 転勤を繰り返しながら外科の学びと経験を積んで、平成元年から東国東地域広域国保総合病院(現在、国東市民病院)に外科部長として勤務しました。その後16年間、同病院へ勤務することになりました。最後の10年間は院長を務めて、勇退して後輩に職を譲りました。
 「仏の里、国東」のキャッチフレーズで観光宣伝にしている地域の公的医療機関であったこともあり、公的な病院の中で地域の宗教関係者に協力をお願いして毎週仏教講座を開催するようになりました。仏教の仕事はなかなか効率の悪い取り組みです、これはその後、細々ではありますが17年間続きました。
 国東の病院を辞した(55歳の時)後、仏教の勉強をしようとやや閑職の故郷の民間医療機関に移りました。医療と仏教の学際的は領域の講義や話をする機会をいただきながら、現在も仏教の学びを続けています。高齢者の老病死に関係する医療・介護・福祉に関わりながら「医療と仏教の協力関係」について考え、看護学校や大学医学部で協力関係への学際的な講義の準備をする中で問題点や課題が見えてくるようになりました。しかし、課題や問題点の克服への道は前途洋々です。
 大学やお寺で講義・講話の依頼を受けながら学びを続けていましたら、龍谷大学の大学院、実践真宗学研究科の立ち上げへの協力要請が来て、仏様より与えられた仕事と考え「医療と仏教の協力関係構築」への学際的な取り組みを平成21年4月より龍大でするようになりました。
 仏教は、「人間に生まれた意味、生きることの意味、死んでいくことの物語」を教えています。医療は人間の老病死を先送りすることはできても最終的には敗北です。 仏教は生死の四苦を超える道を教えています。 人間を救うのは医療か、仏教か………。 医療は病気を治癒に導いたり、よい状態に管理することは可能ですが、限界があります。 人間を本当に救うのは「生死を超える道」として示される仏教の悟り、信心の世界だと受けとっています。 医療は仏教の世界に包含されていると考えることが自然だと思っています。
 人生とはどういう巡り合わせになるか分かりません。縁次第ではどんなにでも変化する可能性を秘めていると教えています。そのことを仏教では「随縁の凡夫」と言っています。 時代・社会状況の中で縁によって与えられた役割を精一杯果たして行く歩みが人生だと受け取っています。 「しあわせ」の漢字は広辞苑には「仕合わせ」と出ています。仏さんからいただいた仕事に出遇うそしてその仕事を精一杯、やらせていただく、完全燃焼するが如くに取り組み、生き切っていくことを『仕合わせ』というのではないでしょうか。世阿弥の「風姿花伝」の中の言葉「時々の初心、忘るべからず」があります。 30歳代には30歳代の、60歳では60歳代の、寝たきりになったら寝たきりになった時の、その「時々」に仏さんから仕事が与えられると聞いてきました。
 医療と仏教の良い協力が出来ると、仏教も生きた人間を相手の本来の仏教になり、同時に医療が医療として十二分にその働きを発揮できるようになると思います。謙虚に初心に帰って、協力関係構築へ取り組んでいきたいと念じています。

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