1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

 青春時代、相思相愛ならば理想的な状態であり、そうなりたいと憧れたことがありました。しかし、思い通りに行かずに、片思いで終わることも多く、そんなことを思い出される出来事がありました。
 昨年の10月以降、新型のインフルエンザの予防接種をすることになり、いつもの季節性の予防接種をする以上の余分な仕事を職員にしてもらう事になったのです。昨年は予定外の夏からの新型インフルエンザの流行で小児科の外来は患者さんが多かった(11月中旬がピークで週に180人のインフルエンザの患者が来院、年末、年始で下火になってきた)。インフルエンザの患者さんが来院しているときに予防接種に来た人が待合室で一緒になることは医学的に当然避けねばなりません。予防接種にきてインフルエンザをもらった、ということになることは医療機関としては恥ずかしいし、来院者への配慮の欠けた病院となるからです。その為、午後の一定時間を健診や予防接種用の時間に当てて、健康な人と感染症の人が一緒にならないように工夫はしているのです。
 今回の新型インフルエンザ騒動では、「かかりつけ医」で予防接種を受けて下さいという行政の指導・誘導がなされました。しかし、この「かかりつけ医」という定義が曖昧なのです、生活習慣病のように定期的に診察をしている患者さんは「かかりつけ医」というイメージに合うのですが、小児科の場合、多くは発熱、風邪、下痢などといわば急性期の一時的な受診となることが多いので、A病院にいったり、B内科医院にいったり、C小児科医院にいったりと、その時の都合(時間帯など)で受診する医療機関が変わる可能性があるからです。
 長年地域で診療をされている小児科医師には顔なじみの人という関係ができて、調子が悪い時、いつも受診してくるから「かかりつけ医」というイメージは合うのでありますが。勤務医として病院へ赴任して間がない医師にとっては地域との関係性が薄いために医師の立場からは「かかりつけ医」というイメージが持てないようなのです。いつも一時的な短期間の医師―患者の関係で、よくなれば来院しなくなるから、一時的な関係であって「かかりつけ医」という概念に相当しないという意識を持たれることもあるようです。
 人口六万ぐらいの宇佐市では患者さんが選べる医療機関も多くない地域ですから、患者さんが、体調不良や病気の時はいつも利用している医療機関があるとするならば、そのA 病院を受診することが多いので、患者さんの立場からは「かかりつけ医」は A 病院です、という反応が起こることは自然なことであります。患者の思いからはA病院が「かかりつけ医」ですと言うでしょう。しかし、それは「片思い」で、新しくこられた勤務医の立場からは「かかりつけ医」でない、というミスマッチが起こるのです。「かかりつけ医」という正式な制度が日本では十分に統一された確立した制度になっていないからです。
 日本の世界に誇る“国民皆保険”の制度は、何時でも、どこでも、自由に、どの医療機関でも受診できる、ということが長所です。英国では「かかりつけ医」制度はあって、かかりつけ医を介さないと専門医や病院を受診できないと聞いています。患者とかかりつけ医の関係は制度的にしっかりと決まっているのです。アメリカでは国民皆保険ではなく、民間の保険制度が発達して、患者の経済状態によって受ける医療に格差ができていると聞いています(オバマ大統領が公的な保険制度の確立を準備して進めているところですが、抵抗する立場の人も多いのです)。英国みたいな「かかりつけ医」制度はアメリカにないのです。急な体調の不良の場合はアメリカではER (emergency room、エマーゼンシールーム、日本の救急外来)を受診すればよいのでしょうが、普通の診療所を受診する場合は予約制が多いので、腹痛で診察を受けようとすると、予約を取ってから来て下さい、ということになり、当日受診できるかどうかわからない、と20数年前シカゴ在住の時に聞いたことがあります。
 新型のインフルエンザのワクチン接種に関して、小児科の患者の家族はいつも診察を受けている医師を「かかりつけ医」だと思っているでしょうが、一方赴任して間がない医師は「かかりつけ医」でないという、という行き違いが起こってしまったのです。予防接種をどこで受けるのがよいのか……、宇佐市の他の医療機関で予防接種できるので大きな混乱はなく経過していますが、一部の患者さんには迷惑とかけることになってしまいました。一部の患者さんが予防接種難民となってしまった可能性があったのです。「かかりつけ医」の制度は日本では定義がまだ漠然としていて、英国みたいな「かかりつけ医」は、制度化されたものではないのです。医療制度に素人の患者さんには分かりにくいのは当然ですが、患者さんの思いと医療機関の意向、そして働く医師の思いが、片思いのように行き違いになってしまうことが起こります。すると医師と患者の家族との間に入る事務職員、看護師の方々が説明や関係調整に苦労することになります。時には患者の家族の思いに添えなくて、家族から「もう、おたくにかかるのは止めます」と厳しい声でいわれてしまいます。
 マルチン・ブーバーが『我と汝』の著作の冒頭に於いて,「世界は人間のとる二つの態度によって二つとなる。」と言われています。この二つの態度のことを,ブーバーは,「根源語」と呼んでいる。二つの根源語が存在するということはどういう事か。<われ−なんじ >の対応の言葉としての『われ』であり,もう一つが,< われ−それ > の対応の言葉としての『われ』である。近代以降の哲学に於いて哲学的思索の前提とされた自我,単独存在としての<われ >は,ブーバーにおいては認められず,< われ >は,必ず< われ−なんじ >の「 われ 」か,または< われ−それ >の「 われ 」かの,どちらかでしかありえないというのです。
 デカルトのいう「我思う故に我あり」のわたしは、世界がどんなであろうとも関係なく、わたしの脳で考えるところの私は一つでしかない、と考えているのです。しかし、ブーバーは「人間の<われ >も二つとなる。なぜならば,根源語< われ−なんじ >の< われ>は,根源語< われ−それ >の< われ >とは異なったものだからであると指摘するのです。
 < われ−それ >の< われ >は、私の周囲の事柄を私にとって利用価値のある物や道具と見る視点であったり、患者さんを仕事の関係の上だけの関わりと割り切って考えているということでしょう。「それ」は3人称として見るのです、相手を物や道具の位置に見る視点は冷たい関係になりがちです。温かい血の通わない関係ということができます。
 一方、< われ−なんじ >の< われ >は、切っても切れない一体感や、担当する者としての責任感をもって見る視点であると思われます。温かい血の通った関係です。患者さんとの関係において自分がかかりつけ医、主治医と思われていると感じるかどうかの感受性にも関係するでしょう。しかし、これは医師だけでなく、患者さんの方の考える視点(医師を道具として利用する視点)にも関係する相互関係においても、あてはまることでしょう。
 かって現役の外科医だった頃、いったん手術を担当した時は、その後の経過に否応なく責任を持たざるをえませんでした。それは今考えると「わたしーそれ」の関係と言うよりは「わたしーなんじ」の関係に近いものだったように思われます。作家の柳田邦男さんが医療関係者は『2.5人称の視点』をもって欲しい、と言われているのはこの事でしょう。医療関係者には眼の前の患者さんを3人称として見るのではなく、是非とも2.5人称の視点で見ていただきたいと願わずにはおれません。
 念仏、南無阿弥陀仏の心は「汝、小さなカラを出て、大きな世界を生きよ」とのはたらきです。その呼びかけを聞いて、その「汝」の心を感得する者は、不思議にも「私―それ」の世界から「私―あなた(汝)」の世界へ転ぜられていくのです。

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