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誰もが世界の中心に居ると感じる世界:同朋(真宗大谷派発行) No.705号 2010年1月掲載

2. 物事を向こう側に見る分別

(1)自我の殻から外を見る

 みなさんおはようございます。大分からまいりました田畑です。龍谷大学の実践真宗学研究科という大学院で、週に二日ほど講義をさせていただいて、九州と行ったり来たりの生活をさせていただいています。今日は「誰もが世界の中心に居ると感じる世界」という題でお話をさせていただきます。まずは私の仏法のご縁になった先生の話からご紹介させていただきます。
 私は学生のときに、福岡教育大学の細川巌先生のお話に出遇って浄土真宗のご縁ができました。最初のお話が非常に印象的でした。先生は、まったく仏法に縁のない私たちに、「私たちというのは卵の殻の中にいるような存在なんだ。みんな幸せになりたい、と生きているんだ。どうしたら幸せになるだろうかと考えると、やはりみんなから善い人間だと思われたい。悪い人間だと思われたくない。できるだけ得になることを心がけていこう。損になることにはできるだけ近寄らないようにしよう。できることなら勝ち組の方に入りたい。負け組の方には入りたくない。善悪・損得・勝ち負けを考えながら生きている。みんな幸せになりたいと言うけれど、結局どうなっていくのかというと、善悪・損得・勝負けに振り回されながら、卵はついに腐って、卵の死を迎えるということが現実なんですよ。卵は死ぬために生まれてきたのかと言うと決してそうではない。この卵は親鳥に抱かれて親鳥から熱を受ける。これを仏教では「教え」という。この「教え」を受けると、中の黄身の部分が少しずつ育てられていって、ものを見る目ができる。考える頭、食べるくちばし、羽ばたく羽、人生を歩む足が出てくるんだ。そしてそれは時期を熟して、ひよこになる。ひよこになることを禅宗では「悟り」といい、浄土教では「信心をいただく」という。ひよこになってみて初めてここに大きな世界があることに気づくと同時に、自分が小さな殻の中にいたことに気づくんだ。この殻を「自己中心の思い」といういつも「私が、私が」と考えている私なんだ。大きな世界があるということと、自分が小さな殻の中にいたということが知らされる。そしてこのひよこは、この大きな明るい世界を、光(教え)に照らされながら、親鳥に、鶏になっていくという、これが仏になっていくということですよ」と。
 こういうようなお話を二十二歳の時に聞かせていただいて、本当に私の二十二年間の歩みは善悪損得勝ち負けで、そのとおりだったなと思いました。しかし、それは小さな殻の中で、それを越えて大きな世界があると初めて聞きまして、「そんな大きな世界があるのか」と思いました。先生に「そういう大きな世界に出てみたいのですが、どうしたらいいでしょうか」と質問しました。そうしたら先生は、「毎月一回、こういう会をしていますから一年続けてみてください」とおっしゃいました。それが私の聞法のスタートになりました。

(2)幸・不幸を決めるのは外の状況か

 仏法に接点がないならば、この卵からひよこになるという展開がないまま、卵は腐って、卵の死を迎える。
 私たちの日頃の思いは自己中心、いつも私にとって善か悪か、損か得か、勝ちか負けかと、いつも思いは自己中心なんです。
 ある多人数の集団が多数決で物事を決める場合、各個人の一人の意思は大切ですが、決めるにあたって、私の一票が決定的な意味を持つことは非常にまれで、多くの場合は、私の意思は大きな数の中のちっぽけな一つですから。吹けば飛ぶような、本当に取るに足らない私。自己中心なんだけど、みんなの全体の中では辺縁(へんえん)にいるような、何か寂しいような感じになります。
 例えば、新型インフルエンザというのがまたもう一回、十月をピークに流行るんじゃなかろうかというのと同時に、十月の下旬からインフルエンザのワクチンの接種が始まります。毎年十一月くらいから季節性のインフルエンザのワクチンの接種を受けていると思うんですけれど、私たちもワクチンの接種を医療機関ですからやります。しかし、それでインフルエンザに必ずならないかというと、「先生、インフルエンザの注射をしたけれど、どうしてインフルエンザにかかったんでしょうか」と、こういう人が何人か必ず出てきます。ということは、インフルエンザのワクチンはその人個人にとっては、効くか効かないか確率の問題なんです。運がいいか悪いか。だけど、社会全体を見ますと、ワクチンをしたことによって、重症の人が少なくなる。死亡の人が減るというのははっきりしているわけです。しかし個人にとっては、〇点か一〇〇点かで本当に頼りにならないようなものなんですけれど、社会全体では確実に効果があるというふうに出ているわけです。
 この自己中心の殻というのはどういうふうな意味があるのかというと、私は殻の中にいて、いつも殻から外側を見ているわけです。そして、私にとって、利用価値があるか利用価値がないか、私にとって好ましいか好ましくないか、私にとって好きか嫌いか。私にとって善い条件をできるだけ周りに集めて、私は幸せな人生を生きていきたいと、こういうふうに考えます。順調にいっているあいだは割といいんですね。個々の発想は、私の幸せか不幸かは外の条件が決めるんだと、ほとんどの人が考えているわけです。だから、外の条件が私にとって好ましいものが集まると私は善い人生を生きていけると。

(3)幸福を目指して不幸の完成は

 私は今、五十人の寝たきりの人たちをお世話している病棟がありまして、その主治医をしています。私たちは「健康で長生き、健康で長生き」と言って、幸せを目指して生きています。今、私のところに、九十九歳のときから私が主治医をしている一〇四歳のご婦人が入院されております。この方は「健康で長生き」、多くの人たちの願いが実現できた姿を示しています。しかし、私が主治医になったとき、私がたまたま部屋を訪ねていって、いろいろ話を聞いて部屋から出ようとすると、「先生、先生」と声をかけてきた。私が「どうされましたか」とその人のベッドのそばまで行きましたら、その方が「先生、日本でも安楽死ができるようになったら私を第一号でしてください」と、こう言うんです。常日ごろ、「死にたい、死にたい」と言っています。「どうして、そんなに死にたいなんて思うんですか」と聞いたら、「私は寂しいです。自分の縁あるものはみんな死んでしまって、甥だとか姪だとか、その先くらいの人たちに世話してもらって、私は寂しいんです」とこう言うわけです。
 私たちは、幸せになれると思って実際やってみた。けれど、だんだん最後の場面になってくると、健康を誇っていたものが病気の一つや二つを持つようになった。若さを誇っていたものが、老いに包まれるようになってきた。役に立つと思っていたものがだんだんみんなに世話をしてもらわないと生きていけないようになってきた。今まではプラスを上げてマイナスを少なくしていくことが生きることの意味だと思っていた。みんなに迷惑をかけることがマイナス、迷惑をかけないことがプラス、役に立つ人間はプラス、役に立たない人間はマイナスと思って生きてきたわけです。その結果、マイナスが周りに集まってきたときに、いつのまにか生きることの意味もわからなくなってきているという現実がありますね。
 生きるということは一体どういうことなんだろうか。今まではプラスを一生懸命集めて、マイナスを少なくしていけば幸せになれると思って、行き着く先はきっと幸せな人生を終えるんだと思っていたわけです。けれども今の高齢社会になってくると、私が医療や福祉の現場で出会う方たちは「健康で長生きが実現できて、そのことが本当に人間に生まれてよかった。生きてきてよかった。死んでいくことも何の心配もない。お任せしております。ナンマンダブツ」となっておられるかというと、ほとんどないですね。それはいつも自己中心の思いで生きているわけですけれども、いつのまにか「私なんかたいしたことない」という、いうならば吹けば飛ぶような何の役にも立たないちっぽけな存在だと。皮肉っぽいですね。自己中心の思いなのに、いつのまにか結果は辺際の方にいるわけですよ。
 仏さんの世界はどうかといいますと、仏法では縁起の法と教えていただいています。ガンジス川の砂の数ほどの因や縁によって、私という存在が今、あるんだ。だから、ここにいるひよこは多くの関係性の中にいるわけです。ガンジス川の砂の数ほどの因や縁によって、たまたま私が仮に和合して今ここに現象としてある。現象ということは、私という固定したものではないんだと。たまたま多くの因や縁が今の私を作り上げていて、その現象は一刹那ごとに生滅を繰り返していると。
 だから、ひとつの因や縁が欠けたならば、次の瞬間には、ゼロとか空、人間では死という、生きているということは、死の裏表でたまたま生かされて存在しているのです。見える命は、多くの見えない命によって支えられている。こういうふうに仏法では教えていただきます。(つづく:1月号から5月号まで予定)

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