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誰もが世界の中心に居ると感じる世界:同朋(真宗大谷派発行) No.706号 2010年2月掲載

1. 物事を向こう側に見る分別(2月号のつづき)

(7) 分別の基本に疑いあり

 それが、私たちが殻を持って、外側を眺めるということの限界なんです。私と外側を対に立てているわけです。対に立てるということは、私と外側が二つ対立してあるという関係なんです。
 仏法の智慧の視点は私と外側が密接な関係なんです。一という関係です。仏教では身土不二とか依正不二。二つではなく、その身とあなたの周りの環境がぴったりと一の関係なんだと。その主人公と環境が一の関係なんだと。これがまさに私というものがガンジス川の砂の数ほどの因や縁との関係性の中で、私がここにあるという関係ですね。これは一という関係です。分別では二という関係です。
 一という関係と二という関係で、どういう特徴があるかといいますと、二という関係は常に私の向こう側にあるものを眺めて、これは利用価値があるか利用価値がないか、これは信用するに足りるか足りないかという、対象化の考えの基本は「疑い」なんです。理性的・知性的ということは、疑うということがまさに理性的であり、知性的であるということのプライドなんです、矜持といいますか。だから、理性的・知性的という人が疑わないとするならば、理性的でない、知性的でないということですよね。ということは、私たちの理知分別というあり方は、疑いを除くことは無理なんです。理性的・知性的分別というのは疑うことを基本に置いていますから、仏教を無理やりに、「私は信じます」と言ったらそれは狂信・妄信になるでしょうね。
 私たちは信心ということを、「私が信じます」というかたちでの信心ではないということを、仏教では教えていただいていると思います。そこのところをどうしても私たちは無理矢理に向こう側に眺めて、全部わかったら信じますというかたちで何とかやりくりしようと苦労することが多いわけですが、その思いが翻されない限り、これは無理だろうと思います。だから二という関係で、信ずるということは狂信・妄信になる危険性を抱えていますね。殻を越える、卵の殻が割れるということはものすごく意味が深いことですね。ひよこは周囲と一体というあり方をしているわけです。依正不二というね。ちょっと極端な言い方をしますと、私と外側はぴったりと一体になった関係ですね。

2.私と周囲は密接な関係(同朋3月号掲載分 No.707号 2010年)

(1)患者と主治医の関係性

 私のところに、元中学の数学の教師が今、高血圧と糖尿病とC型肝炎で通院してきております。この方は、東本願寺の末寺の門徒さん。しかし、数学の先生をずっとしていただけあってか、八十歳過ぎまでほとんどお寺に参っていない人です。この方が、私のところに通院してお元気なんですけど、C型肝炎があるので、がんになる心配を非常にするわけです。そして、膝が痛くなると、寝たきりになる心配をするんです。今お元気なのに、いつのまにか未来のとり越し苦労を一生懸命しているわけです。私がその方に、「先生、平均寿命はかなり超えていますから、もうちょっと鷹揚でいかがですか。仏教の勉強をしませんか」と誘いをかけました。そうしたら、「ワシはまだ早い!」と、こう言われました。とり越し苦労や愚痴を言われるから、「先生、南無阿弥陀仏の心がわかると、もうちょっと鷹揚に生きていけますよ」と言ったら、「訳のわからんナマンダブツだけ言いたくない」とこう言われました。
 わけのわかるものを集めて、八十数年間の人生を積み重ねてきたわけですから、南無阿弥陀仏の世界というのはまさに異質な世界としか思えないわけでしょうね。そういう人たちは、私の周りに良いものを集めて、いい人生を生きると思っているわけです。しかし、迫りくる老い・迫りくる病・迫りくる死というものに出くわしたときに、それが受け取れないわけです。
 この先生があるとき手が腫れてきたことがありました。私は噛まれた痕があったから、「これは虫刺されじゃないですか」と言うんだけど、本人は「右手首が腫れているけれど、左側も一緒にしびれている」と、こう言うわけです。元教師の教え子で私の大学の先輩にもなる方で、同じ市内で整形外科を開業している先輩がおられまして、その医師がその先生の教え子ということで、そっちに行ったわけです。その恩師が両方がしびれるとかいろいろ訴えるもんだから、「両方がしびれるなら、それは局所の問題じゃなく、頭の問題だろう。田畑先生に診てもらいなさい」と言われて、また私のところに帰ってきたわけです。私は局所の問題だろうと思っていましたから、冷やして落ち着いてきたわけです。私が「先生、やっぱり局所の問題で虫か何かに噛まれたんじゃないですか」と言うと、「いや、噛まれていない」としきりに訴えるわけです。「先生、頭の問題じゃなくて局所の問題で、良くなったということは、そういうことじゃないですか」と言ったら、その自分の教え子を、診断を間違えた意味あいで悪く言うわけです。私が「先生、考え方間違っていますよ。先生が教えた子どもが医師になって、もし誤診をしたとしても、それは先生の責任ですよ」と。これはちょっと極端な言い方なんですけど、自分の教え方の結果、その延長線上で教え子が医師の仕事をしていると気づくことが好ましいわけです。
 私たちは自分を教えてくれた先生たちの看板を背負って仕事をさせていただくわけでしょう。先生たちも自分の教えた子どもがそうなっていくとするならば、それは私の責任だと。そういった非常に関連性のある考え方が社会の中で出てくると、非常にいい社会になるわけでしょう。自分の責任は考えずに、自分が良いもの取りができるんだと、ついつい考えていくわけです。私たちの分別がいつのまにかそうなるんですね。
 時々、気心の知れた恩師が通ってきますから言ってるんです。「先生、私が誤診して先生が死んだとしても先生の教え子が誤診したと思って、先生の責任も一部あるとあきらめてもらわなければいけませんよ」と、こう言ったんですけれども、それは本音でそういうことだろうと思います。
 私たちは平成という時代を私が選んで生まれてきたわけでもない。日本という国を私たちが選んで生まれてきたわけでもない。皆さん方が京都で生活をしているということは、京都を選んだ人もいるかもしれないけども、かなりは否応なしにそういう場所性・時代性を生かされているわけです。多くのものは、すでに関係性の中であったというのが本当の相(すがた)でしょう。

(2)自分が除かれたら全体ではない

 「遇縁の凡夫」というように、縁次第では何をしでかすかもしれない私(あらゆる可能性を秘めた私)、ということと同時に自分の愚かさがだんだん照らされてくると、どういうふうになるかと言ったら、対象化の思考では私は自己中心の思いで生きているんだけれど、みんなの中ではちっぽけな存在で、吹けば飛ぶような意味のない存在だと思えるわけです。しかし、仏法のお育てをいただいてみると、この「私」というものは、ガンジス川の砂の数ほどの因や縁によって生かされている。すべてのものの関係性の中で生きているんだ。そんな私が救われるというのはどういうことだろうかと考えます。
 対象化の思考ではどういうふうに考えるかといったら、理性的・知性的に考えますと、「最大多数の最大幸福」というのを求めていくんです。だから、インフルエンザのワクチンにしても、公衆衛生学的に日本全体では、被害を少なくするためにはどうしたらいいかということであって、その中の個人がどうこうというよりは、全体が最大多数の最大幸福なんです。そこでは、私なんかちっぽけな存在だと思えるわけです。
 救われるということは、私にとってはどういうことだろうかというと、私の周りに都合の良いものをいっぱい持って、困った状態から助かることが救われると思いがちです。しかしそれでいくと、迫りくる老病死は解決できないわけです。そこでは愚痴を言いながらあきらめるしかない。こういうふうになってくるんです。
 一方、仏法の世界でいいますと、いかに世間的にときめいている人であろうと、ときめいてない人であろうと、みんな同じ「遇縁の凡夫」なんだとの確信です。そして縁次第では、どうなるかわからない。
 私は今年六十歳になりますけれども、定年を迎えた、いわゆる社会的な仕事を一区切りつけて肩書きがなくなって、ただの人になった多くの人たちにとっては、みんな同じあり方をしているということに気づかされてくるんですね。そのような私が生死の迷いから救われるか救われないかということは大きな課題です。智慧に照らされてみると、私一人の在り方は、すべての人間と同じあり方をしている。大乗仏教としてすべての者を救う教えが私一人を救いから除くようであれば、仏教は本物でない。私が仏教で救われるか救われないかは人類の課題としての意味があるということです。
(つづく、同朋の5月号まで掲載)

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