5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

誰もが世界の中心に居ると感じる世界:同朋(真宗大谷派発行) No.707号 2010年3月掲載

2.私と周囲は密接な関係(3月号のつづき)

(2)自分が除かれたら全体ではない

 理性・知性ではどういうふうに考えるかといいますと、対象化していつも外側を見ていますから、私が問題になることは非常に私的なことだと考えられているわけです。公的な場合は、私というものをあまり表に出すべきものじゃないと考えています。私の弱さだとか、私の足りなさ、私の怠け心というのは克服されるべき ことであって、世間的な建前をよくしながら、みんなが最大多数の最大幸福ということになるわけです。しかし、仏教は私一人がのぞかれているという全体はありえないんだ、と言うんです。私一人がのぞかれていたら、全体にならないんだというわけです。
 分別の対象化した思考は全体を考えたつもりですよ。最大多数の最大幸福とこういうわけですから、全体を考えていますと言うけれど、「私一人は」といったら、ほとんど問題になっていないわけです。だから、いつも私はのぞかれているんですね。
 どうしてかといいますと、いつも対象化する考えの中におりますと、いつも私の内側から外を眺めるわけです。眺めて物事を客観的に見るという訓練を小学校、中学校、高校、大学とずっとしてきますから、私自身が 問われるということがおろそかになるわけです。私自身も、小学校、中学校といえば、学校に行って勉強をして、試験の点数がいいとなんとなく褒められますから、自分の弱さとか怠け心は関係なくて、テストでいい点 数取ろうと一生懸命やったわけです。その延長線で高校にも行き、入試にもなんとか合格できるようにと一生懸命デスクワークをする。それは自分の内面性は問われない。そして、大学に入っても、私は医学部でしたから、なんとか大学を無事通り越して、医者にならなきゃということで、頭だけで、自分自身がどうのこうのと自分の内面を考えるじゃなくて、知識を増やせというかたちで、ずっと自分自身は問われず、外だけを問題にしてきました。そうしたら、昭和四十二年から四十五年の学園紛争の時代に入り込みました。否応なしに私という問題を考えざるをえないようになってきました。そのときに初めて自分が問われるということが身近に感じられました。ああいう経験がなかったならば、まさに外側ばかり眺めながら、あれがいい、あれが悪いというような評論家の一生を送る可能性が十分あったわけです。この対象化というのはいつの間にか「傍観者」になっているんです。

(3)傍観者、傍生(畜生)

 傍観者というのは何かと言いますと、私が知り合いの家に行ったとき、そこに犬がいまして、私は犬とか飼ったことがないものですから、扱いに困るんですけれど、盲導犬になる種類だそうで、訓練する人に時々来てもらっているそうですが、その訓練士が言った言葉を教えてくれました。「どうも犬は、自分が犬だという自覚がないみたいだ」と言うんですね。「へえ〜」と思いました。犬は自分が犬だという自覚がなくて、飼い主のことを仲間みたいな感覚に思っているというのです。「あ、こういうことだろうな」と思いました。
 傍観者というのは、いつも向こう側を眺めて、自分が問われたり責められることからは、できるだけ逃げて回るわけです。そしていつも眺める人生なんです。仏教に似た言葉がありまして、「傍生」というのがあるんです。傍らで生きる。なんのことかといったら、「畜生」のことなんです。動物のことなんです。どういうことかというと、いつも眺める人生を生きているわけですよ。自分が問われることからはできるだけ逃げ回るのです。
 動物の中でも金魚鉢の金魚を考えたらわかりますよね。金魚鉢の中でいつも外側をキョロキョロ眺めながら、金魚の一生を終えるわけです。金魚にとっては、人間的表現をするならば「人間に生まれてよかった。生きていてよかった。死んでいくことも何の心配もない。南無阿弥陀仏」という世界を持てているかというと、金魚は自分という意識がありませんから、眺める人生を金魚の寿命としておくるわけです。自分が問われたり、責められたりしない一生というのは、いつも眺める人生。それはどうなるかといったら、生きても生きたことにならないという「空過」という危険をもっているわけです。

3.私の周囲の事物は恵まれたもの(同朋、No.708号 2010年,4月掲載)

(1)良いものだけを集める分別

 最初は生きることの意味が、プラス価値を上げて、マイナス価値を下げて幸せになっていくんだと思って生きてきた。順調にいっている間はよかったんですけれど、だんだん老病死が迫ってきて、プラス価値が減っていくという状況になってきたときに、生きることの方向がわからなくなってきた。まして、自分が問われずにいつも眺める人生でいいとこ取りをしようと思っていたから、終わってみればあっという間に人生が空しく過ぎているという現実に直面するのです。医療や福祉の現場において多くの患者さんたちの心や精神的な訴えの多くは、そういうことが絡んでいるわけです。その老病死をどう受け取ったらいいのか分らず、いつの間にか眺める人生なんですね。
 前回お話した数学の先生が、週に三日ほど注射に来ますから、そのとき話をするわけです。そうするとだんだん仏教のほうにもなびいてきます。もともと浄土真宗の門徒さんですから、私はどっぷりと浄土真宗の対話をするんです。しかし、家に帰ると、元の木阿弥。いろいろ話しているうちにこう言うんですね。ちょっと距離を置いて「いろんな考え方がありますからね」と。眺めるわけでしょう。仏教もある。いろんな宗教もある。「いろんな考え方がありますからね」と眺めて言うわけです。そして、「仏教は難しいですね」と言う。それは何かと言ったら、わかる範囲のものだと思って見ていますからね。仏さまを数学的に言うならば、不等号がいくらあっても足りないぐらいの、次元を超えた大きさのものを小さな私がわかろうとしているわけです。ですから「難しいですね」というのは、自分に理解できる範囲のものだと考えているからです。
 言い方をフライング気味に言うならば、「私の頭が悪いからわからん」と言えばいいのに、言わないんです。やっぱり理性・知性というのは、自分を超えたものがあると認められないわけです。理性・知性というのは世の中のことは全部わかる範囲のものだと。これは養老孟司先生が言っていますね。講義をすると学生が、「そこがわからないからもうちょっと説明してください」と。非常にいいことなんですけど、先生は「説明してくれればわかるという傲慢さの中にいるということに気づかない」と、こうおっしゃっています。
 私たちは理性・知性からいって、物事を向こう側にみるという対象化の世界では全部わかるはずだという前提で推し進めていますから、そう言わざるを得ないわけです。けれども、この世界のことを少しずつ知らされてくると、説明してくれればわかるということは、これは無理なんだと。私が圧倒的に大きいことをわかるということは無理なんだということがわかりますよね。

(2)彼岸、浄土はあるのか?

 仏の世界を、彼岸とするならば、私が殻の中で右往左往している世界は此岸ですよね。此の岸ですよね。彼岸と此岸の関係はどういう関係か。まさに殻の中と、ひよこになった世界はどういう関係なのかというと、彼岸の世界は、この此岸の世界である迷いの世界を教えてくれる。善悪・損得・勝ち負けで、一生懸命生きているつもりで、迷いを繰り返している私の状態を照らし出してくれるということにおいて、彼岸はあるわけです。
(続く)

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