6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

誰もが世界の中心に居ると感じる世界:同朋(真宗大谷派発行) No.708号 2010年4月掲載

3.私の周囲の事物は恵まれたもの

(2)彼岸、浄土はあるのか?(4月の案内の途中からの続き)
 だから、いわゆる場所として彼岸があるとか浄土があるんじゃなくて、自分のこの世での理性・知性・分別での生き方が迷いでありますよ、ということを知らせるはたらきにおいて彼岸はあるんです。
 浄土はあるわけです。だから、物理的とか地理的に浄土があるのではなくて、自分の生き方の迷いを照らし出すということにおいて、確かに仏さまのはたらきはある。仏さまはいらっしゃるわけです。
 けれども、見せてくれといっても、見せることができないわけですね。だから、この圧倒的大きいものが、私のあり方を煩悩具足、遇縁の凡夫というふうに照らし出すことにおいて、この光明ははっきりしているわけです。
 この迷いを繰り返している私に、大きな世界から熱が届けられる。教えが届けられる。それを、本願・南無阿弥陀仏というわけです。名前となって、あなたに智慧といのちを届けたい。南無阿弥陀仏のこころは、「汝、小さな殻を出て大きな世界を生きよ」ということです。小さな殻の中で振り回されていることを明らかにしてくれるということにおいて、このはたらきはあるわけです。「如来まします」と。私に真実なし。真実は如来であった、といって私の迷いを知らせてくれます。
 私たちの理性・知性の発想は、善か悪か、得か損か、勝ちか負けか、好きか嫌いか、利用価値があるかないか、正しいか間違いか。だいたいこの物差しが、殻の中で分別で考えているほとんどですよね。
 そこには、真理とか、真実ということは話題にならないわけです。数学の問題では、この式が正しいことを証明しなさい、というわけですから、この式が正しいか間違いかですよね。けれども、この世間的な物差しを繰り返していってしまったら、その生き方は空過流転になります。それは、聖徳太子が世間虚仮・不実といって、まさに指摘したごとく、我痴で生きる私たちの理性・知性の分別のあり方は、結果として虚仮不実になりますよ、ということを教えてくれるということにおいて、それは真実であった。
 だから真実だということが話題になるのは、世間ではほとんどないわけですね。私の虚仮不実を教えてくれるということにおいて、それは真実であったと気づかされてくるわけです。
(3)浄土ははたらきの世界
 自分の虚仮不実のあり方を知らされてみると、遇縁の凡夫とか煩悩具足の私のあり方は、私が救われないとするならば、無条件の救いを説く仏教は本物ではないというあり方です。これはちょっと、展開が極端かもしれませんけどね。世間、分別の考えでは、私が救われるか救われないかよりも、全体が、最大多数の最大幸福ということを目指してきたわけです。しかし、本当の全体とは、私を含んでの全体なんだと。私個人が救われないような全体はあり得ない。私を含んで全体になるんだ。と同時に、本当に仏教が救うか救わないかは、仏教が本当に真実かどうかが問われてくるんだ。私を救えないような仏教は真実ではない、本物ではないといえるわけですよね。
 『浄土論』の中に、
 観彼世界相  (かの世界の相を観ずるに)
 勝過三界道  (三界の道に勝過せり。)
 究竟如虚空  (究竟して虚空のごとく)
 広大無辺際  (広大にして辺際なし)
という言葉があります。これはどういうことかといいますと、仏さまの世界を観ずるに、いわゆる私たちの迷いの世界を超えているのだと。そして、仏さまの世界は、ものすごく広くて辺際がないんだと。
 私は初め、広大にして辺際がないというのは、それくらい浄土が大きいんだろうなあと、大きさを表現したことだろうと思っていたわけです。そしたら、故平野修先生の講演録に、辺際なしというのは、私が中心にいると感じる世界なんだと。辺際がないということは、ただ広いんじゃないんですね。私が中心にいると感じさせる世界なんです。あなたこそ仏教の目当てですよ、といって、仏法の教えが私たちに迫ってくる世界なんですよと。誰もが中心にいると感じる世界が、まさに仏さまの智慧の世界、浄土なんですね。
 私たちは分別で生きていけるといって、自己中心の思いなんですけど、私なんか大したことないという辺際にいるわけです。けれども、仏さまの世界は圧倒的に大きいという関係性の世界から、私は生かされている。願われている。教えられている。あなたが救われなければ本物、真実でない。
 私が救われなければ、本物でない。いや、人類の代表としての私なんだ。私たちはそういう使命を背負ってるんだというんですね。私という人間を救わないとするならば、仏教は本物でないんだ、とまで言えるわけです。私はそういう人類の課題を背負って、私が生きていくということは、そういう課題を背負って、仏教が本物かどうかを証明していく役割というか責任を、私たち一人ひとりはみんな持たされている。
 『歎異抄』に、「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり」(『真宗聖典』六四〇頁)という言葉がありますね。私ひとりのための本願、教えであったと。
 全体からみると、仏さまからみると、私なんか本当にちっぽけな存在なんですけれども、それが私こそ仏さまの目当てでありましたと考えていくと、私が本当に中心なんだと。この私を救わんがために、いろんな役割を演じながら、私に仏法に気づけとはたらきかけてくれているわけです。
 私は殻の中にいる世界から、ひよこになるという展開ですね。仏法を聴き始めた最初のころもそうでしたけれども、今もってこのたとえ話というのは、私たちを教える内容が含まれているなと思います。殻の中で私が中心だといって、自己中心でいる。結局それは暗い世界で仏教なんかなくても生きていけると豪語しているけれども、結局それは理知分別で有り、智慧がないから一生懸命考えても、虚仮不実、生きても生きたことにならないんじゃないだろうかと思います。

4.天命に安んじて人事を尽くす

(1)分別を超えた世界
 エリザベス・キューブラー・ロス(一九二六─二〇〇四年)という女医さんがいました。その先生に、余命数カ月の末期癌患者が、「先生、私はいい生活はしてきたけれども、本当に生きたことがない」と、こういう訴えをしたそうです。世間的に、経済的には安定して、そこそこの生活を過ごしてきたけれども、あと数カ月のいのちだというときに、私は生きていたんだろうか。何か負けちゃならないと思って、走り回っていただけじゃないだろうかと思うわけです。空過流転の思いというか、いい生活はしてきたけれども、本当に生きたという実感がない。それは、外側を眺める人生で自分が問われることがない。責められることがない。そういう人生をずっと過ごしてみて、傍観者の人生で終わったときに、「いい生活はしてきたけれども、本当に生きたという実感がない」、という愚痴みたいになるんじゃないでしょうか。
 私の受け持ちの患者さんで元中学の数学の先生が、「私たち凡夫には、覚るのは難しいですね」とおっしゃいます。これはどこが問題なのかと考えてみました。凡夫というのは覚りの言葉だと聞いています。仏さまが圧倒的に大きいという関係が感得されると、目覚めの言葉には懺悔(さんげ)と感謝を伴うと教えていただいています。仏を仏と思わない、本当に申し訳ない私でございます、南無阿弥陀仏、という懺悔と、本当に多くのお育て、生かされている私でございますという、感謝です。
 しかし、先程の言葉では「凡夫」とは言っているが懺悔が伴っているように思われませんでした。
(2)照らし破られる私の殻
 いろいろな医療関係者の人とお話したときに、私が仏教に関わっているというのを知っている人たちがときどき、「特定の宗教というのは私は信じていません。宗教に入っていませんけれども、私には宗教心があります。私には信仰心があります」と、こういう言い方をされることがあります。
 サムシング・グレートというか、何か大きいものに対して仰ぐというかお参りをするというか、そういうものを崇(あが)めようとする気持ちはあるんだというわけですね。でも、何となく私は違和感を感じるわけです。どうしてかなと考えてみたら、根は同じなんだと思いました。
 「宗教心があります」「信仰心があります」「凡夫には覚るのは難しい」と、言葉は宗教用語を使っているわけです。けれども、それを使っている人の内面性に、懺悔と感謝が伴っているかというと、伴っていないわけですよね。凡夫ですと気づいた人は、「参った、ナンマンダブツ」と頭が下がっているはずなんです。それが、頭を上げて「凡夫には覚(さと)るのが難しい」ですね、とこう言うわけですよ。内実の懺悔と感謝が伴っているかどうかというと、これはどうかなと思います。
(続く)

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