8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

時感断想(中外日報からの依頼原稿………仏教関係の週刊新聞)

第一回(H22年6月 8日掲載)
 ある僧侶が人間は病気が原因で死ぬのではない。人間として生まれたことが死ぬ原因だ」と本音を交えて冗談を言うのを聞いたことがあります。
 これは正論でありますが、現実には医師は死亡診断書を書くときに死亡原因としての病名を書きます。その記載された死因の統計は国民の保険・医療・福祉に関する行政の重要な基礎資料として役だっています。
 人類は感染症との戦いの時期が長く、昭和20年代までの死因の一番は感染症でした。その後、薬剤の開発・進展、公衆衛生の進歩や住環境の改善でかなりの感染症は克服可能となりましたが、昨今のウイルス感染症の流行で依然として感染症が大きな部分を占めていることが注目されました。
 感染症の克服によって,死因の一番に躍り出たのが悪性腫瘍(ガンなど)です。ガン治療に対しては根治治療を目指す一方、根治できない患者さんへの緩和ケアが昭和の終わり頃から進められ、保険診療でもガンとエイズに対しての緩和ケアが認められてきました。しかし、緩和ケアが必要なのは決してガンやエイズだけではなかったのです。
 今春、英国の緩和ケア関連の学会に参加された人の報告で「緩和ケアを従来のガンだけでなく非悪性疾患へ広げよう」という動向が目立ったと書かれていました。これは医療界の大きな変化の動向だと思われます。治療という概念は「老病死は本来の「生(せい)」の姿ではない。元気で生き生きした健康な生に戻す」という不老長寿が目標だったのです。寿命の限界が見えてくるようになり、「良き死」をも考えて行こうという動向だからです。健康の定義にスピリチュアルな要素が加われば、スピリチュアルな素養を身につける者は、「健康に老い、健康に病み,健康に死ぬ」と言える世界が展開します。仏教の智慧の世界が人類に認知される時代を迎えようとしています。

第二回(H22年6月15日掲載)
 日本人の男女合わせての平均寿命は約82歳である。いわゆる団塊の世代が今後20年間でその年齢に達する。人生50年と言われた時代から、プラス三十数年、この期間が成熟の期間となるか、老病死への不安の期間となるかが問われようとしています。世俗で、健康で長生きを目指している人は、元気な間はよいのですが、老病死に直面してしまうと「つまらんごとなった」「迷惑をかける」「役に立たない」などと愚痴を発する人が診療の場面では多いのです。
 一方医療関係者も老病死に対して、「健康で長生き」や「不老長寿」を目指す方向での思考しかしてないと病状の進んだ患者のとの対話がぎこちないものになったり、患者さんに寄り添う対応ができないことになります。ある医師から、「病状の進んだガン患者から『もう治らないのではないでしょうか』と言われた医師は、とっさに『そんな弱音をはいたらダメですよ、がんばりましょう』と言った。患者は「ハア」と言って患者との対話が途絶えてしまった。」という経験を聞きました。
 看護学科の女学生のレポートに、「二年生のとき、初めて患者さんを受け持たせていただいたが、末期の患者さんだった。告知されておらず、私はとにかく、その方の死というものを考えないようにしていた。ある時、患者さんが『もうすぐ自分は死ぬ』と口に出した。私はとっさに『そんなことないです。そんなこと言わないでください』と言ったのだが、その時の患者さんの複雑そうな顔が印象に残っている。」と書かれていたという。
 老病死に直面するようになると患者さんからの訴えには嘘はありません。身体的な症状には対応できても、精神的な訴えには実存的な内容も表白されるでしょう。科学的な合理主義を心情とする多くの医療関係者の思考での対応で十分だろうか、宗教者が役割を発揮することが求められる時代を迎えようとしていると思われます。

第三回(H22年6月22日掲載)
   現代の日本人の死亡原因は悪性腫瘍、心臓血管障害、脳血管障害の順であり、この三つで約60%を占めています。これらの治療方法の進歩は日進月歩で急性期の医療から一歩距離を置ていた私には最新の医療の知識に遅れずについて行くことは至難のことであります。それだけに自分の力量の分際を知りながら専門医に相談しながら患者さんによかれと思われる診療を行うしかありません。
 新しい医学情報に目を通しながら気づかされることは前記の疾患の治療が改善されても寿命は120歳ぐらいまでであろうと書かれているということです。医学の進歩にかかわらず人間としての寿命の天井がだんだん見えてきたように思われます。
 例えば糖尿病の専門医が,「糖尿病を治療せずに放置しておくと20年で死亡するガンみたいなものです」と治療を勧める健康指導があります。確かに糖尿病の治療をまじめにしていくと糖尿病は治癒しないが、普通の人と同じ寿命が可能だということは臨床で事実が示しています。しかし、いかに立派に治療をしていても「死」までは免れることはできないのです。医療関係者は治療を受ければあたかも不老長寿が実現できるかのような指導をして、治療を勧めますが、結果的には老病死を避けることはできません。医療は老病死につかまるのを限りなく先送りしようとしているということです
 老病死に直面した状態は,好ましくないと考える人が多いために、マスメディアではあまり取り上げないようです。かって、テレビの地方放送で「あなたは死をどこで迎えるか」というテーマの生番組に出演したことがありますが、司会の人が収録の時に、「この話題だけは取り上げたくないと思っていたが……」と本音をいわれたことを思い出します。元気でイキイキした高齢者は放送されますが、老病死の現実はないかのごとくに演出されています。しかし、医療・福祉の領域では時代の要請として老病死を豊かに受容する文化が求められているのです。

第四回(H22年6月29日掲載)
 科学的合理思考を日本の多くの医療関係者は基本としています。それは独りよがりでなく客観的な普遍性のある思考を大事にしているということです。最近、ガンに取り組んでいる指導的な人の本を読んで、ガンを治療するために人間の知恵をフル動員して最新の科学的な知見や技術を取り入れて治療に当たっている積極的な意欲を感じることができました。ガンの治癒を目指した治療の進歩は先進的な取り組みの医療者のご苦労のお陰であり、多くの患者がその恩恵を被っています。
 一方、治療が難しい状態になって,種々の苦痛を和らげる緩和ケアが主な対応になったとき、医療者の姿勢にちょっとした変化を見ることができます。
 患者の治療の為にはあらゆる手段方法を取り入れようとされるのですが、緩和ケアに対応しようとした場合に,自分の準拠する科学的合理思考が老病死を受容できないという現実に直面しても、その思考方法に執われて、思考の限界性に気づく柔軟性がないのではと思われるということです。
 思考の延長線上で老病死を受けとめることができないで、「敗北」や「廃品」の如く自分を見る視点は思考の不十分さ,未熟さを示しているのではないでしょうか。老病死をも豊かに受け取ることのできる思考に変容していくことが求められていると思うのです。
 自分の個人的人生を生きるには、どう考えて生きようと、それは本人の自己責任ですからそれで良いでしょう。 しかし、人を援助する仕事、患者のためによかれと考える職種は、患者のために治療に対する態度と同じように、患者の苦痛をとるために、あらゆる手段方法思考を考えて行くことが求められています。
 医療関係者の拠り所とする思考で老病死を受容できないとするならば,生死の四苦を超える道に関わる人々と協力関係を作って取り組むということが必要ではないでしょうか。特に職種に「師」と付く職種は仏教にも耳を傾けてほしいものです。

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