10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

NHK宗教の時間「今、今日を生きる」(2010年6月20日放送のものを一部修正しました)(U)

時間をどう考えていくか
 私たち普通世間では、時間というものを直線的に考えまして、過去があり現在があり未来があるというふうにずっと時間は直線的に経過するように思っています。しかし、仏教は「今、今日しかない」のだと教えてくれています。ここのところが非常に難しいところですけども、仏教は実感を大切にします。そして仏教は「今、今日を大事にしましょう」と教えてくれているのです。
 私が大分県で医療関係者の人たちに、「仏教と医療の協力」という話をさせていただいた時、仏教は「明日はありません、今、今日が大事ですよ」と教えてくれています、という話をした時に私の知り合いのある病院の院長先生が質問をされたのです。どういった内容かといったら、その方が「田畑さん、私たちは明るい未来がある、明るい明日があることが、今日を生きるエネルギーになるのですよ。明日がないなんていわれたら困るじゃないですか」、非常に素直な質問ですね、大事な課題です。
 私はこういう質問に象徴されるように、仏教抜きの世間では、いつのまにか明日こそしあわせになるぞ、これの解決がついたらもうちょっと楽になるぞ、といっていつの間にか明日が目標(目的)になっていて、今日は明日のための準備のような位置にあつかってないだろうかな、ということを思わせていただきました。

目的に尊厳があり、手段・方法・道具には値段がある
 よく命の尊厳ということを言いますけど。尊いとか尊くないとか判断する基準というのは、いろいろあるようですけども、私が教えていただいた哲学の教授がこんなことを言っておりました。
 「目的には尊厳があり、手段・方法・道具の位置にあるものは値段がある」とカントという哲学者が言っているのだそうです。目的はとりかえようがない、一番大事な目的ですけども、手段・方法・道具の位置にあるものは、目的が達成されたならば使い捨てにされるという位置づけになるわけです。だから手段・方法には値段があるということは相対的な価値の位置にあるものだということでしょう。そして目的が達成されたならばもうそれはいらないという可能性があるわけです。
 「明日こそ幸せになるぞ」、「明日こそ幸せになるぞ」と生きているときは明日が目的であって、今日は明日のための準備の位置にあるというふうになっているのです。これはパスカルというパスカルの原理で有名なパスカルさん。この方はクリスチャンですけども、パンセという本の中でそのことを、私たち人間はいつのまにか「明日こそ幸せになるぞ、明日こそ幸せになるぞ、と死ぬまで幸せになる準備ばっかりしている」という主旨のことを書かれています。言われてみればそうかもしれません。やっぱりここに私たちはいつの間にか、明日こそ、明日こそを生きているという現代人の有り方があるように思われます。

今、今日の受け取り
 仏教が「生死を超える道」という形で教えてくれているのはこのあたりに非常に大事なヒントがあると思うのです。「今、今日が大事だ」という仏さんの心をいろいろたずねてみますと、何人かの先生の言葉が貴重なことを重層的に私に教えてくれているように思われました。一つは養老孟司という先生です。この先生は東大の解剖の教授をされておりましたけれど、マスコミなんかで非常な有名人ですけども、この先生の対談というものを読んで教えられることがありました。 そこではこんなことをおっしゃっていました。たとえば、「昨日の夜、昨日の私は死んだんだ。そして今日の朝、今日の私が誕生した。今日という日は初体験の日なのです。そして、今日の夜、今日の私は死んでいくのです」、とこういわれています。そして明日の朝また目が覚めたらまた新しい私が誕生していくのです。それは毎日、生まれては死に、生まれては死にということを繰り返しているということを教えてくれています。それは1日、1日が貴重な時であり、有ること難しの1日である。その一日一日を大切にしましょうということを言わんとされているのだと思います。
 もう一つは、私たちの仏教の先生が一日一日を仏教の教えをいただいて大事に生きるとはどういうことかということを教えようとされて、「今日の朝、目が覚めた時に、今日の命がいただけた、南無阿弥陀仏、と今日一日をスタートするのですよ」、と教えてくれていました。そして、今日、夜にやすむときに「今日、私なりに精一杯生きさせていただきました、南無阿弥陀仏、とやすんでいくんですよ」と教えてくれていました。
 私はその二人の先生を合わせまして、毎日、毎日、目が覚めたときに「今日の命をいただけた南無阿弥陀仏」と今日、一日をスタートさせていきます。そして、今日、夜やむときに「今日、私なりに精一杯生きさせていただきました、南無阿弥陀仏」と死んでいくんだな、ということを思わせていただいております。

念仏のはたらきで区切る
 そういうことを考えながら、またある先生からこんなことを教えていただきました。私たちというのは今、今日という時間をとらえるのがなかなか難しいのだと。確かに今というのは一瞬ですから、なかなかとらえどころがありません。それで今という時間のとらえどころがないと、どういうふうになるかというと、いつの間にか過去のことをいろいろ考えて、あの時ああしとけばよかった、この時こうしとけばよかったと考える。
 もう終わったことを今もってきて、いろいろ悩む、これは「持ち越し苦労」といいます。一方ではちょっとひまになるとまた未来の心配をこれはどうなるだろうか、あれはどうなるだろうか、とかそういう未来のことをもってきて心配をします。これは「取り越し苦労」といいます。いつの間にか私たちは「持ち越し苦労」、「取り越し苦労」という形で振り回されていることがあります。
 でもその先生はこうおっしゃるのです。そこに区切りをつけることが大事だと。どういうことかといいますと、終わったことに対しては、もうそこで「持ち越し苦労」を昨日と今日の間で区切りをつけるのだと。そして、「取り越し苦労」については明日と今日の間に区切りをつけるのだ。

念仏に込められた智慧
 仏法の心、仏の心をいただいてみますと、このお念仏というのは私たちに智慧と命を届けたいという心なのですね。私たちがお念仏によって智慧をいただくということは、その智慧の部分的な味わいとするならば、そういう区切りをつけていただける、ということかなと思うのです。そうすると昨日までのいろんなこと が南無阿弥陀仏でそこで区切りがつく。そして今日一日、精一杯生かされていること受け取って生きていこう。そしてふと未来の心配が出てくると、「ああまた私の自力のはからいが始まった、南無阿弥陀仏」と、そこに区切っていただく。そういう意味ではお念仏というのは私たちに区切りをつけるということを教えて くれているのだなと思います。
 最初にお話したように、いつの間にか明日が目的であり、今日は明日のための準備の日であるような生き方をしていた私が、今日、一日を過去との区切りがつき、未来との区切りがつく、という区切りを私たちはつけていくことで、今、今日を完結した1日であるかのように受け取り、生きることを輝かせていくというか、今日1日を目的であるかの如くに、大事に生ききっていく道に導かれると教えていただいています。

死にたくないとは宗教的目覚めを求める叫び
 それと同時に時間ということを考えたときに、産業医科大学というのが北九州市にあります。そこに非常勤講師でこられておりました古川泰龍という真言宗の僧侶の方がおられました。この先生は数年前なくなられましたけども、その先生の著作を読んでみますと、「『死』は救えるか」(地湧社、1986年)という 本の中で先生はこんなことを書いておりました。「高齢になったり、大きな病気をした患者さんがよく『死にたくない』とか、死なないわけにはいかないから要求をさげて『長生きしたい』」とこういうことをおっしゃると。で、この先生は「死にたくない」とか「長生きしたい」とかいうのにはある深い意味があるのだとこういうのです。(続く)

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