11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

NHK宗教の時間「今、今日を生きる」(2010年6月20日放送のものを一部修正しました)(V)

死にたくないとは宗教的目覚めを求める叫び(一部前の月のものと重複)
 それと同時に時間ということを考えたときに、産業医科大学というのが北九州市にあります。そこに非常勤講師でこられておりました古川泰龍という真言宗の僧侶の方がおられました。この先生は数年前なくなられましたけども、その先生の著作を読んでみますと、「『死』は救えるか」(地湧社、1986年)という本の中で先生はこんなことを書いておりました。「高齢になったり、大きな病気をした患者さんがよく『死にたくない』とか、死なないわけにはいかないから要求をさげて『長生きしたい』」とこういうことをおっしゃると。で、この先生は「死にたくない」とか「長生きしたい」とかいうのにはある深い意味があるのだとこういうのです。
 その心をこんなにおっしゃっていました。「私は生まれてから死ぬという、有限の命を生きてきた。大きな病気をした、だんだん高齢になって死が近づいてきた。だけれども、出会うべきものに出遇わないまま人生を終わろうとしている。何か出遇うべきものに出会ってない、出会うべきものに出会いたい、という思い が『死にたくない』という表現になっているのだ」。
 その「死にたくない」というのは生まれてから死ぬという有限の命を生きてきたものが何か出会うべきものに出会わないまま人生を終わろうとしている。何か死に切れない、「死なない命にめぐりあいたい」のだという宗教的目覚めを求める叫びである、というのです。
 仏教の言葉に無量寿というのがあります、無量寿というのは無量の寿(いのち)と書きます。いやこれは仏の心、永遠ということでもあります。ということは この無量寿のいのちにめぐりあいたいのだということだというのが「死にたくない」「長生きしたい」という心ですよ、とおっしゃっていました。私はその言葉 は、どうだろうかなと考えていろんな本を読んでみましたら、ある大学の哲学の先生もそんなことをおっしゃっていました。「死にたくない」「長生きしたい」 というのは「死のない命にめぐりあいたい」のだという宗教的めざめを求めている叫びであると書いてあったのです。

今、永遠に出遇う
 私たちが仏の心、南無阿弥陀仏というお念仏に出会っていくときに、そのお念仏の無量寿に出遇っていくといいます。それは仏の心、永遠の世界に出遇うのです。そうすると私たちは今の一瞬に永遠に出遇うという。これは普通の考えでいうと今と永遠というのは矛盾するようなことになるのですけども、仏さんの智慧 をいただいていくと、この今と永遠を生きるということは決して矛盾しなくなるのです。これは生死を超えるという形で表現された世界なのだと思います。そう いう今の一瞬に永遠に出遇うというのが浄土教でいうと念仏するということで実現する世界です。
 歎異抄という本がありますけども、歎異抄の第一章には「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて往生をばとぐるなりと信じて、念仏申さんと思い立つ心 のおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」というのがあります。摂取不捨というのはおさめとって、捨てずという意味です。この念仏申 さんと思い立つ心がおこった時、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり。とは念仏申さんと思い立つ心がおこった時、仏さんの世界(無量寿)、永遠 に出遇っていくのです。
 いや永遠に出遇うというか、仏さんにお任せしとけばいいという大きな世界です。
 出遇うときにいつのまにか念仏せずにはおれないという展開があります。 その念仏せずにはおれない展開で念仏申さんと思い立つ心がおこったときに摂取不捨、永遠という世界に出遇うのです。それは生死を超えるという形で表現して いる救いの世界だと頂いています。

往生浄土の歩み
 今の一瞬に念仏申さんと思い立つ心がおこった時に、永遠に出遇っていくという世界があるのです。仏の心に触れ、念仏申さんと思い立つ心がおこった時に、 私たちは本当に「出会うべきものに出遇ってよかった」という世界を身体全体で思えるようになってきます。その結果、いつの間にか「いつ死んでもいい、いつ までも長生きしてもいい、おまかせします。私は生かされていることを精一杯、今、今日を一日一日生ききっていきます」、という世界に導かれていくのです。
 念仏によって永遠と出遇うという世界(浄土を生きる存在になる)をいただくときに、それは明日があるとか、どうのこうのじゃなくて、今、生かされている ことを精一杯生ききっていけば、明日はおまかせでいい。もし明日また命が与えられたならば、また明日は明日で精一杯、一日一日大事にして生ききっていこ う。そういう世界を生きていくものは一日一日を大事に生ききっていって、あとはお任せという生き方で、命の短い、長いの執われを超えて生きていく世界に導 かれていくのです。
 私はそういう世界を味わっていかれた先輩方をいろいろ見たり聞いたりする機会がありました。私は医療の世界で、確かに現代の進歩したいろんな治療法で病 気をなおしていただいて、できるだけ長生きするということも大事でしょう。確かに医療で平均寿命が世界を誇るように長生きできるようになりました。しか し、その多くの高齢者の人たちの現実を医療・福祉の現場で接してみますと、長生きしたことを本当に喜べているかどうかということを考えてしまします。
 日本人の平均寿命は昭和25年は60歳だったそうです。それが今は日本人と生まれた人の半分以上が、80歳を超える時代になりました。このプラス20 年、人生が延びた時間を本当に長生きしてよかったか、というと、最初のうちはお元気なうちは長生きしてよかったというふうなことをおっしゃる人が多いので すけども、だんだんと老病死の現実に直面するようになると、私に愚痴みたいにいろいろな訴えをされる方があります。

高齢社会の課題
 この老病死をどう受け取るか、というのは高齢社会を迎えまして医療の現場でも福祉の現場でも非常に重大な、大切な課題になっています。しかし、これを単 に「健康で長生き」、「健康で長生き」という方向だけではそういう病気になったときに、老病死の現実が受け取れない、戸惑い、愚痴を言うという事実になって現れているのです。
 また命の尊厳ということで、時間的な長さを延ばす延命医療になりすぎて、老病死の受け取りがこれでよいのだろうかという現実が出てきています。この現代日本の医療・福祉の現場の課題は、今後の高齢社会を迎えるにあったてますます切実な課題となるでしょう。
 この現代の課題を、医療と仏教が協力をしてこの生死を超える道を志向して、医療によってできるだけ長生きさせていただく、病気も助けていただく。そして 助かって長生きできた時間、その時間を生かして仏法とのご縁が出てきて、気付き、目覚めの展開があるならば、老病死の現実に出会うときでも、「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」と、受け取っていけるでしょう。
 そして本当に一日一日を目的みたいに大事に生ききっていくという世界に導かれ、そこで、いつ死んでもいい、いつまで長生きしてもいい、おまかせしますという展開があると、こんなすばらしいことはないのではないかなということを思っております。(終わり)

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