12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2553)

 パンセ(パスカル著、前田陽一、由木 康訳、1973年、中央文庫、中央公論新社)を読むようになったのは東本願寺の関係者の紹介でした。パスカルは中学の理科の教科書に出ていることもあって有名でしたが、パンセと言う名前は聞いたことがありましたが全く読んだことはありませんでした。でも一部を読んでみるとキリスト教の信仰に裏づけされた深い思索の内容だと分かり、教えられる所が多いのです。例えばパンセのp115−116 には、「我われは決して、現在の時に安住していない。我われは未来を、それがくるのが遅すぎるかのように、その流れを早めるかのように、前から待ちわびている。あるいはまた、過去を、それが早く行きすぎるので、とどめようとして呼び返している。これは実に無分別なことであって、我われは自分のものでない前後の時の中をさまよい、我われのものであるただ一つの時について少しも考えないのである。これはまた実にむなしいことであって、我われはなにものでもない前後の時のことを考え 存在するただ一つの時を考えないで逃がしているのである。というわけは、現在というものは、普通、われわれを傷つけるからである。それが我われを悲しませるので、我われは、それを我われの目から隠すのである。そして、もしそれが楽しいものなら、我われはそれが逃げるのを見て残念がる。我われは、現在を未来によって支えようと努め、我われが到達するかどうかについては何の保証もない時のために、我われの力の及ばない物事を按配(あんばい)しようと思うのである。おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。我われ、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決して我われの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけが我われの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在を生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、我われは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。」
 仏教では「今、ここ」ということを大事にしています。上記の内容を読むと、普遍性のある世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教………宗教哲学の分野での認識と聞いています)というものには共通の気付き、目覚めということがあると思われます。それは私の生きている, 現前の事実(現実)の今、ここを大事するということです。(神道などの民族宗教は、私、我が家、我が民族だけよかれ……という傾向がつよく、気付き、目覚め、悟りという、思考の深さがないといわれています)しかし、今、ここの現実は、多かれ・少なかれ「思い通りにならない」ということに直面しています。いやそれは世俗的に恵まれている人も、恵まれてない人も、内容は異なっているが「思い通りにならない」という現実を抱え込んでいるのです。思い通りになって、いわゆる “有頂天” で暮している人も、仏教では迷いの世界といわれています。天人五衰の言葉のように必ず「天」から落ちることを免れません。その時の苦しみは地獄の16倍といわれています。パスカルは“現実は「我々を傷つけたり、悲しませたり」する”と表現しています。だからそれを見ないようにしたり、それから逃げたりするのです。そしてこの現実が受け取れない、嫌だから、困るから…… 、そこで未来に、自分の思いが実現することを夢見るということになっています。その時、自分の思い、思いの先、すなわち目的が「明るいだろうと夢見る未来」になることになります。私の想定した未来は、いつ現実になるのだろうか。「今、ここ」での有り方が、不足・不満・欠乏という心のあり方、すなわち、仏教が教える「餓鬼」というあり方だと常に不足不満を生きることになるので「足るを知る」という状態にはなかなかならないでしょう。いったん手に入れたもの、いつの間にか当たり前のこととなっていくのです。完全な満足を目指す人は不満の種を探すのがうまくて、周りの人や社会がその人のために普通以上に種々の配慮をしても、不満、不平の種を探し出すことがじょうずだ、と聞いたことがあります。今年ももう12月です。60歳を過ぎると一段と時間の経過が早いように思われますが、身近な人が病気になったり、親しい師や先輩が亡くなる知らせを聞くと、次は私の番であっても不思議ではなくなっています。老病死は他人事ではなく私の課題なのです。パンセにはさらに次のよう文章があります。p120 には
「我われは絶壁が見えないようにするために、何か目をさえぎるものを前方においた後、安心して絶壁の方へ走っているのである。」
と書かれています。絶壁とは「死」であり、さえぎるものは「幸福」ということだと受け取れます。日常生活では絶壁と言うものを見えないように気をつけているのです。そのことは次の記事に象徴されます。
大分合同新聞夕刊の記事、「おじさん図鑑」飛鳥圭介(エッセイスト、2008/12/17) ―九州にてー 九州の有名な弥生時代の復元遺跡をおじさんが見学した折のこと。  大昔の人々のお墓の跡として、たくさんの土製のお棺が展示されている場所がある。おじさんがいろいろな思いでその展示品を眺めていると、すぐ後ろを歩いていた七、八歳ぐらいの子どもが、若い父親に九州弁でこう問いかけた。 「ねえ、お父さん、この人たちはみんな死んだと?なぜ死んだと?」父親は優しく答えた。「うーん、病気やらけがやら、年を取ったりして、死んだとやろ」  「お父さん、人はなぜ死ぬと?」 「皆、順番に死ぬとよ。お父さんもいつか死ぬようになっとるたい」  「じゃあ、ぼくもいつか死ぬと?」すかさず父親は答えた。「いいや、おまえは死なん。ずーっと生きとる。大丈夫たい。おまえだけは死なんようになっとる」 手をつないで歩き去る親子を見送りながら、おじさんは独り涙ぐむ思いで感動していた。そして心の中でエールを(なぜか九州弁で)送るのだった。「大丈夫たい。二人ともずーっと死ぬことはなか」 私たちにとって好ましくない事実は出来るだけ隠す、見えないようにする、忘れさせる、触れないようにする。先日旅行に行って民宿に宿を取ったのですが、宿泊したところは4階なのにエレベーターに4階の表示がなく、5階の表示でした。私が仕事をしている今の病院でも「4、四(し)」のつく部屋はありませんが、年間10数名の死亡があります。 仏教は老病死を受容する世界、生老病死の四苦を超える道を教えてくれていますが、世俗の常識では考えられない世界でしょう。 勉強しなければならない小、中、高校生にはテレビは邪魔する、困った存在です。どうすればテレビを見ないようになるか、それはテレビより面白い、興味を引く、大事なものに関心を持たせることです。生死の四苦を超えるには、四苦が小さなこと、些細(ささい)なことと思わせる大きな世界に出会うことでしょう。無量寿・無量光はまさに質を異にする大きさ(量でいうと圧倒的な大きな世界)を表しているのです。だから信じられないのです。歎異抄の後序の一節「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は よろずのこと そらごと たわごと まことあることなきに ただ念仏のみぞ まことにおわします」が思いだされます。南無阿弥陀仏。

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