1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2554)

 浄土教の拠りどころとなる仏説無量寿経の中に48の本願が説かれています。その中で仏のはたらきとして智慧と慈悲が示されています。具体的には第十二願( 願名 - 光明無量の願 )、第十三願( 願名 - 寿命無量の願 )です。仏の徳、往生浄土したものに具わるべき徳を示しています。一方、親鸞聖人の浄土和讃に、 … (浄土和讃、註釈版571頁、486、島地聖典11-20、東聖典486)
 「十方微塵世界の 念仏の衆生をみそなはし 摂取してすてざれば 阿弥陀となづけたてまつる」(現代語訳:十方の数限りない世界にいる、念仏の衆生をご覧になり、その者たちを光明の中に摂め取って捨てることがない。それゆえに阿弥陀如来と申し上げるのである。)があります。
 仏がいて、仏の徳として智慧と慈悲があるというのではなく、智慧と慈悲のはたらきに「阿弥陀仏」という名前を付けると表現されています。はたらきですから見えない、聞こえない、触れない、そのはたらきのすべてをこめて、具体的な名前、名号、南無阿弥陀仏として選び出されたのです。
 智慧と慈悲を分けるのは我々の分別に理解しやすいように分けて説明しているのですが、本体は一つでそのはたらきを二つに分けて表現しているのでしょう。本願の順番が十二願、十三願の順序になっています。それは智慧のない慈悲は本当の慈悲にならないということです。現代、社会的な活動として種々の福祉や救済活動が展開されていますが、将来を見通した内容の救済策でないと、一時的な救いになっても長い目で見たときに救済ということの実が実現できているか、どうか疑わしいことがしばしばあります。どんな社会福祉も智慧がない、その場をしのぐ救済になると、本当の意味での救済にならないということです。本当の救済は「無明の闇を破る」ということに勝る救いはないと仏教は教えています。釈尊、法然、親鸞さんは「無明の闇を破る」ということに徹底されているように思われます。
 ある種の予防接種注射がその人の将来の病気の予防、病気に伴う合併症の予防になると評価されていて、実際にその効果が実証されている予防接種を子どもさんに実施する時、子供はその予防接種を受ける直前に種々の嫌がる反応を示します。分別のある子供は甘んじて痛みを我慢する行動を示します。しかし、分別の未熟な子供は直前になって拒否の態度をしめして、逃げ回り、反抗して、親や医療関係者を煩わせます。子どもの将来のためによかれと考えて実施しているのですが、一部の子供は近視眼的には注射の痛みを嫌がるのです。痛みを嫌がる子どもの気持ちを尊重して注射をしないという選びをするかどうか………、嫌がる子どもを押さえつけて予防接種の注射をすることはしばしばあります。ただし、過去の予防注射で結果としてウイルス性の肝炎をうつされ、罹患(りかん)したという思わぬ(予期できない)副作用が過去にあり裁判沙汰になっていますが……。
 後先にとらわれてはならないのですが、智慧が先で慈悲が後ということです。 智慧のはたらきを慈悲という言葉で表すのです。 智慧なくして慈悲なしです。 だから智慧、そして慈悲の順序になっているのです。
 親鸞聖人の入出二門偈頌には、 「無碍の光明は大慈悲なり。この光明はすなはち諸仏の智なり。」唯信鈔文意には、 「…無礙光仏の御かたちは、智慧のひかりにてましますゆゑに、この仏の智願海にすすめ入れたまふなり。一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたちなり」という表現がなされています。これらの言葉が示しているのは、阿弥陀仏があって智慧と慈悲の働きをするということではなく、智慧と慈悲のはたらきを「阿弥陀仏」と表現すると示されているということだと、最近、ある講師から教えていただきました。
 「諸仏の智」、「一切諸仏の智慧をあつめたまへる御かたち」と言われている心は、向こうから智慧が来るというよりは、一切の衆生の上に(中に)仏のはたらきを見出して、いただいていく姿勢を示しています。 それは法蔵魂(仏説無量寿経の法蔵菩薩の心)と言われるものです。 私が聞法して数年経過したとき、浄土真宗の教えというものは「一生、被教育者としての歩み」であると感じたのはこのことだったのだろうと思われました。 それに関連して最近次のような文章が印象にのこりました。
 「救いとは、よき人の讃嘆される南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、無限な精進の願いを生きる人になることです。」「教えや、いろいろな現実の因や縁で自分の空っぽであることにうなづかされるとき、ただ無限に教えをいただいていくという無限精進の歩みが生まれる。本当の求道者が誕生する。 信心とは具体的な概念、理念、観念、心境とかの固定したものではなく、何も持たないまま裸の求道者になるということが本当の信心の姿である。」「信心ということにこだわらず、どこまでも求道者として生きていくことが本当の信心です。」
 これらの文章が示しているのは、あらゆるものから学ぼうという姿勢です。他者や現実から頭を下げて教えをいただき、学ぶことを「供養諸仏」とも言います。頭を下げて教えを学ぶ。聞法する。そして私を知らせていただくのです。よき師の讃嘆される南無阿弥陀仏に、徹底して頭を下げて学ぶ心を聞いた人は、常に「供養諸仏」の姿を取ります。
 供養諸仏をしない人の特徴は、自分は豊富な人生経験があり、世事に関してもそこそこ博学だと自負している傾向のある人だということができます。 しかし、愚かさとは仏の智慧がないということを言っているのです。 智慧がないというのは「世俗的な物事を自分はよく知っている」ということの愚かさです。知っていると自負するために、物事を問うたり、考えたり、理解をしなくなり、自分の小賢しさで判定する、レッテルをはる、そして優劣をつけるということになるのです。 ある患者との対話の中で「仏教は難しいですね」とか「いろいろな考え方がありますからね」と発言されるのを聞いたことがありますが、まさにこのことを示しています。 他人事ではなくい我々の陥りやすいところです。
 仏教の救いの根本は「無明の闇を破る」ということでしょう。慈悲のはたらきを抜苦与楽という表現で説明することもありますが、迷いの原因が、種々の縁によって増幅されて迷いの繰り返し(惑、業、苦)ということになるのです。迷いの元の無明性を照らし破ることが必要です。それは無くするのではなく、気づいていくということが大事です。我々の分別に潜む無明の本体、煩悩性(我痴・我見・我慢・我愛)は生きている限りなくすことはできないのです。それを見透かして、闇を破るはたらき、仏の智慧を名号( 南無阿弥陀仏)として届けようと働いているのです。(続く)

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