2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2554)

 (1月のご案内からの続き)光明無量を智慧という、仏から言うと教える・闇(迷い)をはらすはたらきです。私から言うと教えられる、信心をいただく、迷いから救われるということです。仏説無量寿経(大経)では法蔵菩薩の話が展開されていますが、法蔵菩薩は、はじめは世俗の王様であったものが世自在王仏に出遇って、道意(道を求める心)を起こして比丘(求道者、修行者)となります。世自在王仏の元で指導を受けて学仏、求道します。そして遂にすべての悩める人を救う道を見出されたのです。その内容を世自在王仏の前で表白されるという「物語」で大経の中に四十八の本願が説かれていきます。その十七番目の第十七願(註1.)に諸仏称名(諸仏が褒め称える、南無阿弥陀仏を誉める)の願が説かれています。
 諸仏が仏を讃(たた)える・誉(ほ)め称(たた)えるということです。私は今まで仏を誉め讃えるということは、仏は素晴らしいですね、南無阿弥陀仏という名前となった仏さんは素晴らしいですね、という具合に、仏の徳を讃えるとともに多くの人々に仏さんを誉めて勧めてくださるようにして欲しい、という願いだと受け取っていました。
 ところが羽田信生師のお話を聞くと、さらに深い意味を教えられました。
 法蔵比丘は求道者となり、次第に進展して法蔵菩薩となっていきます。最初は過去に王であったために、つい頭が上がって私はかって王様だったという意識があったであろう、しかし、師によって智慧のないことを知らされ、時には叱られ、教えられる中に次第に頭が下がるようになり、すべての存在に頭を下げて教えていただくという姿勢をとるようになったのです。衆生の中に教えられるものを見出すようになる、学ぼうという姿勢を取る、内在する諸仏を見出し、その諸仏の前に頭を下げて拝むようになった。無限に頭を下げて教えられる者(被教育者)として諸仏を供養する菩薩となっていったのです。
 縁起の法では、私という存在はガンジス河の砂の数の因や縁が仮に和合して刹那的に存在すると教えています。そして無常というように「常」なるものは無く、生滅を繰り返しているのです。それは無数の因や縁によって有らしめられている、支えられている、願われている、教えられている、生かされているということです。無量・無数の衆生から教えられているということは、無数の衆生の中に自分を教えるものを見出す智慧の目を持ったということです。すべての衆生を、私を教える存在として受け取っていく無限の精進を生きる存在になったということです。無限の精進を生きる人ですからこの世では菩薩です。法蔵菩薩の誕生です。法蔵菩薩の智慧は法蔵菩薩自身の智慧というよりは多くの方々から集めた智慧ということです。
 法蔵比丘が無限の精進を生きる法蔵菩薩という存在に展開した。法蔵菩薩から頭を下げられた衆生は法蔵菩薩の生き方を見て、あなたこそ、私を教えてくれる存在です、とお互いに念ずるようになっていったのです。「仏々相念」という言葉がありますが、仏のみ仏を見ることができるということです。仏という存在を知ることのできる存在は仏と同じ智慧のレベルに達した者だけだということです。頭を下げられた衆生は、あなたは法蔵菩薩を超えて阿弥陀仏になられています。智慧の存在です。すべてのものに智慧を見出す存在です。無量の智慧を見出す存在、諸仏から智慧をいただいて智慧を集めた無量光(智慧)の存在です、阿弥陀仏ですと展開したのです。 阿弥陀仏に出遇った者は必ず、頭を下げて「南無」という姿勢を取ります。それが「南無阿弥陀仏」と念仏することになります。南無阿弥陀仏と讃えられる存在になったということです。それを諸仏が南無阿弥陀仏と名前・名号を讃えるようになるということだと教えられました。第十七願の諸仏称名の願の背後にある意味・物語りであるということでしょう。
 光明無量はサンスクリット語では「アミターバー」、無限の光の存在というそうです。私の無明の闇を照らし、闇(迷い)を払らすはたらきをいいます。阿弥陀仏は諸仏から学び集めた智慧を身に備えた存在です。智慧そのものを阿弥陀仏というのでしょう。阿弥陀仏に触れるものは自然とそのはたらきを被(こうむ)るのです。はたらきを被る者は必ず「南無阿弥陀仏」という姿勢になり頭を下げて学び・考える存在になるでしょう。
 第十七願は非常に大切な願であるので、仏説無量寿経の中の重誓偈で再度、誓われています。
 重誓偈では、「我至成仏道 名声超十方 究竟靡所聞 誓不成正覚 」( われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。)と弥陀は諸仏の名号讃歎を願われたばかりか、直接に名号を衆生に聞かせたいと願われているのです。それを親鸞聖人は正信偈には「 重誓名声聞十方」と示されています。名となり声となって 十方の衆生に名号を聞かせたいとの願が重誓偈における第十七願の意であり、その願が成就して、今、私たちの上に「南無阿弥陀仏」の声となり、称名念仏となって、名号が私たちに称えられ聞かしめられているのです。
 衆生が称える念仏は衆生の側から起こるものではなくて、阿弥陀仏が名号を聞かしめたいと願われた願力・念力が衆生の口を通して念仏の声となって現れ、「南無阿弥陀仏」と耳に聞かしめられるのであると知らされます。
 南無阿弥陀仏と念仏することの功徳として、憶念、念持、不忘というはたらきを備えていると聞いています。また念仏する人には、金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。なにものか十とする。一つに は冥衆護持の益、二つには至徳具足の益、三つには転悪成善の益、四つには諸仏護念の益、五つには諸仏称讃の益、六つには心光常護の益、七つには心多歓喜の益、 八つには知恩報徳の益、九つには常行大悲の益、十には正定聚に入る益なり(西註釈版聖典、p251、東聖典、p240、島地聖典12-83)、と示されています。
 信心は煩悩を滅却して得られるものではなく、また固定的に持続する状態でもなく、その時その時に念仏する、すなわち煩悩具足の凡夫の自覚であります。浄土真宗は、煩悩の自覚を通してその都度その都度、念仏して信心へと転ぜられてゆく転悪成徳(善)の道であります。
註1. 第十七願(註釈版18頁、486、島地聖典1-16、東聖典18)
設我得佛 十方世界 無量諸佛 不悉咨嗟 稱我名者不取正覺  漢訳: たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ。 梵文和訳:世尊よ。もしもわたくしが覚りを得た後に、無量の諸仏国における無量・無数の世尊・目ざめた人たち(=諸仏)が、わたくしの名を称えたり、ほめ讃えたりせず、賞讃もせず、ほめことばを宣揚したり弘めたりもしないようであったら、その間はわたくしは、<この上ない正しい覚り>を現に覚ることがありませんように。

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