3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2554)
自分の現実をどう受け止めるか、ということは世俗と仏教を考える上で大事な点であるということを最近、感じる機会がありましたので文章にします。
自我意識の芽生えたころから、行動がよい(善行)ことや、こころがけのよい(善意)ことが尊重されることだという雰囲気を感じながら成長してきたように思われます。そのためには対外的には品行方正を示すように行動することが求められてきました。そして、家庭や私的な所ではそうなれない自分の本音や私的な欲や弱さを認めるような部分を露出させてもよいような生活をするようになっていました(建て前と本音を小賢しく使い分けていた。一方、陰・ひなたのない子どもがお利口だ、善い子という評価もされていました)。
努力することや明るい未来を切り開くように頑張って進むことがよいことです。今に満足せず、さらに上を目指すことが進歩・発展へとつながり、そのための努力をすることが人間として素晴らしいのだという思いを持って生きてきました。生涯、前向きに向上していくことが大事だという思いであります。
別の表現をすると、自分の現実に対して「これではいけない………もう少し上等な私に成らなければ………」と思っている私です。まして「継続は力なり」という標語に出会うと、そうだ、事を成した先達方は皆、努力精進の人々だった、私も少しでもまねをして頑張らなければという思いです。
仏教の師はお話の中で「君は、それでよいのか?」という言葉の前に、多くの者は「これではいけない、もう少し頑張らなくて」という思いをもつ、そして「継続は力なり」という言葉に、さらに継続して頑張ろうと勇気を奮い立たせる、とお話されていました。
またお話の中で、錆びて曲がった釘のさびを落として真っすぐにする時(錆びたくぎは自分のこと)、教えのハンマーで釘をたたき、まっすぐにしようとします。しかし、砂の上に釘をおいたのではハンマーでいくら叩(たた)いても釘は砂の中に埋没していき、まっすぐなりません。まっすぐするためには硬い金床が必要です。金床とは私の現実である。これが私の現実という金床の上に錆びて曲がった釘をおいて、教えのハンマーでたたくことが大事である、とよき師はお話されていました。私の現実という金床の上で、煩悩具足の私(さび釘)が南無阿弥陀仏のハンマーで叩かれるのです、私の現実に対して「これではいけない」という姿勢ではなく、「これが私の現実、南無阿弥陀仏」となることが大事です。
「これではいけない、もう少しましな私でなければ………」という思いはどうしても頭の中での受け取りになるということです。我々の理性・知性・分別の立場や思考では「これではいけない、もう少しましな私でなければ………」という発想には何らも問題はなく健全な思考、善い心がけであると判断します。まして「これが私の現実」とそこに腰かけるような姿勢は、後ろ向きだ、怠け者の思考だとなるでしょう。でもこの思考方法には、避けられない陥りやすい落とし穴があります。
ある課題に取り組み、努力したとします。しばらくしてその結果が出ます。その時、結果が予定通りの好ましい結果だと、その後に考えるのは「努力の結果うまくいったから、さらに努力を続けよう」となるのが自然です。一方、結果が思うようなよい結果が出なかった。そうすると「私の努力が足りなかったのだろう。さらに努力を積み重ねていこう」となります。そこでは努力をして前向きに取り込むことの問題点を大きな視点から思考していこうという発想は出にくいのです。
ここで思い出されるのがパスカルの指摘であります。著書「パンセ」の中で、「おのおの自分の考えを検討してみるがいい。そうすれば、自分の考えがすべて過去と未来とによって占められているのを見いだすであろう。我われ、現在についてはほとんど考えない。そして、もし考えたにしても、それは未来を処理するための光をそこから得ようとするためだけである。現在は決して我われの目的ではない。過去と現在とは、われわれの手段であり、ただ未来だけが我われの目的である。このようにしてわれわれは、決して現在を生きているのではなく、将来生きることを希望しているのである。そして、我われは幸福になる準備ばかりいつまでもしているので、現に幸福になることなどできなくなるのも、いたしかたがないわけである。」 と興味深い指摘をされています。
我々はいろいろな考え方の中から、自分にできる最善のもの、そして自分に都合のよい選択をしていこうとします。選択する時の私の本音は何処にあるだろうか。私の頭の自我意識の本音を基盤にするか、身体全体の本音を基礎として考えていくのかということです。この時に身体全体の私、即ち「これが私の現実、南無阿弥陀仏」と落ち着くかどうかが大事な点になるのです。今まで人生を生きてきた中で、思考の壁や、思い通りにならない現実に挫折を経験した者、そしてそれなりに精いっぱい頑張ったという思いのある者には、これが私、身体全体の私、という基盤を持ちやすいでしょう。
一方、対象化の思考方法に囚われている者、傍観者的視点を超えられない者、餓鬼根性、コソ泥精神(こそっと分からないだろうと盗みを働く心)、など執われの分別を生きている者には、限りなく頭の中での思考にとらわれる傾向があります。(他人のことではなく、私のことです)
仏教では「こんな私だからこそ、仏さんは……」「これが私の現実、南無阿弥陀仏」と受け取ることを大事にします。大事にするというよりはこの受け取りしか本当はないのです。それなのに我々は「これではいけない、………」と自分を賢げに叱咤激励するのです。パスカルはそれを、「幸福になる準備ばかりを繰り返している」、と指摘されているのです。
この世の現象を考える時、物事というのはその都度完結しているのです。ある人はそれを「人生とは取り返しのつかない決断の連続である」「人間という業縁存在を引き受けて生きる」とも表現しています。しかし、それだと「仏教は刹那的な今、今日しか言わないのか」と言われそうですが。念仏をいただく者は、今、南無阿弥陀仏と無量寿をいただく、即ち、今に永遠を生きる世界に導かれるのです。師の講義なかで「遥期果上、近励因行」(はるか未来を期して、近く、足元の因となる行に励む)という言葉
紹介がありました(出典を探したことがありましたが見つけることができませんでした)。念仏をいただく者は時間・空間を超えた大きな世界を生きておられるんだなあ………と思ったことがありました。
「これではいけない、もう少し………」と生きていくのか、「これが私の現実、南無阿弥陀仏」と生きていくのかは歎異抄の第2章の最後の一節「念仏をとりて信じたてまつらとも、また捨てんとも、面々のおんはからいなり」ということでしょう。仏教は実験です、実験して体得というか、感得することを大切しています。念仏の教えを無視するか、仏法の教えを聞いて念仏して受けとめていくか………。我々は日々、決断が迫られ、実験することが求められているのです。……空過流転か、実りある人生か…。 |