4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)

 親鸞聖人に関心を持っていると聞いていた吉本隆明氏の新聞記事に出会った、「絶えずいつでも考えています」[ 2011年3月20日朝日新聞掲載 ]である。
 …前略… 戦争が終わったとき、僕はとても落胆しましたが、思い返せば軍国主義だけはよく学んだけれど、それ以外のことは学んでこなかったじゃないかと思い、本を読みました。『新約聖書』も読んだし、マルクスの『資本論』も古典経済学のアダム・スミスも、自分なりの読み分けができるまで読みました。これから自分は何を警戒し、何を戒めとしたらいいのか。読みながらそれを考え続けました。
 そして考えたことの中に、レーニンとスターリンの対決で結末がついた問題もありました。切実な私事と公、どちらを選ぶべきか、という問題です。
 レーニンは、ロシアに本当の意味でマルクス主義の社会が成立するなら、その時は共産党は解散しようと『国家と革命』の中で言っています。共産主義の相互扶助、それが成就したら党を解散しようというのがレーニンの考えでした。そして年をとったレーニンが病に伏し、妻が看病しますが、スターリンはレーニンに対し、おまえの妻は党の公事をないがしろにしていると批判します。そこから二人の対決が始まります。
 家族の看病や家族の死といった切実な私事と、公の職務が重なってしまったとき、どっちを選択することが正しいのか。東洋的、スターリン的マルクス主義者であれば公を選ぶのが正しいというでしょう。ところがマルクスは、そうではないことを示しています。
 マルクスは、唯物論でなんでも白黒つけちまえという論者たちとは異なり、肉親が死んだときの寂しさ、闘病のつらさといった切実なことは、公の利益のよさといったことと別のものだということを「芸術論」で言っています。この「私」をとるのがマルクス思想の本流であり、それは比較や善悪の問題でもなく人間の問題なんだ、というのがレーニンの立場です。真理に近いのはどっちだ、ぎりぎりの時にどっちを選ぶんだとなれば、レーニンの立場 を選ばざるを得ないでしょう。…後略……
 私が大学生だった時代は社会的、思想的に混沌とした時代であったような気がします。しかし、私自身は表面的な世俗的な発想しかなく、哲学的、宗教的、思想的な思索はほとんどできてなかったと痛感させられます。上に書かれている吉本氏の文章を見て、「公的な問題と私的な問題」と「真理に近いのはどっちだ」のところに注目させられました。こういう思索はやはりなされていたのかという驚きです。驚くということは自分の無知によるということでもあります。
 なぜ関心を引いたかというと「私的な立場」への関わりということです。現代人が慣れ親しんだ対象化の思考では、主として自分を除いた外側を多く見て問題とします。私の幸福・不幸を決める要素は私の外側の状況であると思っています。そこでは私的なことは、まさに私的なことで表に出すべきことではない、として世間的な建前を表向きに優先して考える世間の発想であるように思われます。世俗の「世間を相手の生活」「世間の目を気にした生活」ということです。対象化の思考では自分を見る目が非常に浅いので自分のことが分かっているのか、分かっていないのか、よく分かりません。それは公的なものを優先する思考に合っていると思うのです。滅私奉公の日本の伝統的(?)な思考とも一致します。
 今までに外国の指導的な立場の人が私的なことを優先するために公的な立場を辞めるという報道に時々接することがあるのを、なんとなく違和感を感ずるような体質が私にもありました。仏教(浄土教)の学びの歩みの中で私の考えは大きく変化させられたように思われます。公的なものから私的なものへの比重の移動と言ってもよいかも知れません。滅私奉公の建前を優先する思考から、「私の本音」を大事にする思考へ、そして仏の光に照らされて知らされる「私」、仏の本願の教えによって頷(うなず)かされる「私」におもむきを置く立場です。別の表現で言うならば、本当の私に出遇う、私になりきる、私は私でよかった、というような「私」を大事にする世界です。
 これは仏教の教える内道、内観と深く関わりがあるのではないかと思うのです。日本の文化に仏教は内観という道を展開するという画期的な貢献をしたのです。現代人の多くがとる対象化した思考に留まると、その視点では物事の半分しか分からないままに人生を過ごしてしまう(人生の外側の半分しか見てないのに、当人は全てを見ているつもりでいる)とまで言えるとお聞きしています。
 世間虚仮(こけ)唯仏是真(ぜしん) は天寿国曼荼羅(てんじゅこくまんだら)に記されている聖徳太子の言葉と言われている内容に関して、我々は本音で世間が虚仮だとは思っているでしょうか。本音ではそう思っていないから、社会状況、経済状況、自然環境、などを整備して幸福な社会を作ることを優先課題としています。先人の取り組みのご苦労の恩恵をこうむって現在、日本の社会で我々は生活をしています。
 東日本大震災は日本社会に大激震を与えていますが、数年後には国民の貢献でかなり回復されるでしょう。それは現代日本に生活する人々が科学的思考を信奉して最大多数の最大幸福を目指して努力するから、外側から見る限り状況は改善されていくのです。 しかし、目覚めた釈尊の目ではこの世に常楽我浄なしと見えるこの世界に我々は常楽我浄を再び作り上げようとしていきます……。我々のその愚かさを「世間虚仮」と指摘されているのです………。再建を止めなさいと言っているのではありません、我々はやるしかないのですから、しかし、それに振り回されるなということでしょう。
 私自身は小賢しく立ち回って最大多数の最大幸福の中に狡猾(こうかつ)に滑り込んでいると思っています。でも、小賢しさの延長線上で、私、個人が人生を生きていく上で「人間に生まれてよかった、生きてきてよかった」という人生を生き切るかことができるかどうかは大いに問題が残ります。 私は一人で、自分さえよければと周りを意識しないで生きていくことができるでしょうか。私と私の周囲は密接な関係があります。仏教では依正不二とか身土不二と言われています。仏教では自分さえ心の安定が得られれば善いという立場を「二乗」とか「菩薩の死」として、避けるべきことと教えられています。
 最大多数の救いと言って政治・経済などでは、相対的な多数が大きな関心項目ですが、私が含まれてない多数だとするならば、私にはどうでもよいことになります。一人ひとりを大事にするとはよく聞く言葉ですが、その一人ひとりを大事にする方法が問題になるでしょう。救いの対象から漏れる可能性のある人が存在する相対的な多数だと、大乗仏教のいう全ての人の救いにはなりません。
 浄土教が目指す救いは、最も劣った者が、最も簡単な方法(念仏)で、最高の救いを実現する、これが浄土の教えの目指す救いです。この器量の最も劣った者(仏法を無視したり、誹謗したりする者を含む)を、簡単な方法で、最高の救いを実現することによって全ての人の救いが可能になるのです。
 一人の人間を大切にする時、人間を見る目が、対象化の視点か、理性知性を十二分に働かせて(哲学、心理学など内省を含む)の視点か、仏の目・智慧の目で見る視点かということが大切になります。 自分を見る視点の深さが非常に大事になるということです。その視点の深さ・広さが地獄・餓鬼・畜生の視点から仏(仏智)の視点への違いが出てくる所以ではないでしょうか。 仏智の視点において初めて一人の人間を大事にし、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)を超えて人間性を確保する道になるのではないでしょうか。 智慧に照らされる生き方、それは一人として救いから漏れることのない世界……、仏の前なる生活こそ、私的であるかのように見えるが、結果として私的世界を超えて最も公的な生活であるともいえるのではないだろうか。私を含んだ全体という内観の世界を抜きにして、相対的な最大多数の救いを目指すのであれば「虚仮」「虚偽」であることを免れることができないのではないかと考えます。
 仏教が目指す救いは、相対的な多数ということではなく、個人の一人ひとりの目覚めた(信心をいたく)者を集めた全体の救いです。一人ひとりを大事にした個人の集まりとしての多数です。仏教が大切にするのは目覚めるということです。吉本氏の「切実な私事と公、どちらを選ぶべきか、という問題です」と指摘しているが、自分を知ることの深さに密接な関係があるのではないかと思われます。大経の「汝自当知」は「お前自身で悟れ」ということと「汝自身を知れ」という意味でもあるようです。あるがままの自分を見る視点の深まり(対象化から内観へ)によって、私的なものと公的なもののどちらを大事にするかの違いが出てきます。その視点が真実であるかどうかによって空過流転の人生になるか、実(み)のりある人生となるかに分かれるでしょう。

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