5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)

 4月(先月)の案内文がなかなか理解しがたいというメールをいただきました。
< 仏教が目指す救いは、相対的な多数ということではなく、個人の一人ひとりの目覚めた(信心をいたく)者を集めた全体の救いです。一人ひとりを大事にした個人の集まりとしての多数です。仏教が大切にするのは目覚めるということです。吉本氏の「切実な私事と公、どちらを選ぶべきか、という問題です」と指摘しているが、自分を知ることの深さに密接な関係があるのではないかと思われます。大経の「汝自当知」は「お前自身で悟れ」ということと「汝自身を知れ」という意味でもあるようです。あるがままの自分を見る視点の深まり(対象化から内観へ)によって、私的なものと公的なもののどちらを大事にするかの違いが出てきます。その視点が真実であるかどうかによって空過流転の人生になるか、実(み)のりある人生となるかに分かれるでしょう。>
のところを、何かの機会に、我々哲学に弱いものにもわかるように説明しなおしてくださるとありがたいです。
 全く申し訳ありません、独りよがりの文章になってしまっています。
 日本経済新聞2011年4月20日の記事で「大震災、日本を立て直す」の中で野中郁次郎(一橋大学名誉教授)さんが、「日本には社会全体として傍観者的に発言することが知的であるという風潮がある。しかし、これほど『反知的』であることはない」と書かれていました。
 傍観者とは対象化の視点であります。自分の立っている位置がはっきりしていないという欠点があります。自分は責められない、問われない、批判されない立場においての発言という意味でしょう。自分と周りの現象、事象は深い関係性がある(依正不二、身土不二)のですが、無関係を装って批判するのです。現代社会で社会制度によって社会的地位が資格や権力で保証されていて、その恩恵を受けていながらその立場を辞めたり、恩恵の部分を社会に何らかの形で還元することはせずに、恩恵を既得権としてぬくぬくと享受しながらその社会体制を批判する類です。対象化の思考で生活する大多数の人が陥りやすい現象です。そんな思考の人は世間の目は少しは気にしているようですが、自分に優しく、他に厳しくという視点です。 仏教では「我見」といって迷いの見方です。………自分の姿を見ることにおいて浅い、甘いと言わざるをえません。
 見えていることを見てその上で合理的に判断しているのでしょうが、見えているものが狭い、浅い、偏った見方になっているから、惑業苦、惑業苦……、と迷いを繰り返すことになるのでしょう。
 ここで余談ですが友人から教えてもらったことを紹介します。日経新聞の記事のことを友人に紹介したら、宗正元先生の発言を思い出として以下のようなことを紹介してくれました。
#1.宗先生が本山の出版部におられたとき、本の巻頭言を依頼する先生を決めるときに、H先生に相談したとき先生がある人の名前をあげられ、その先生のことを、宗先生が「あの人は良い文章を書くけど名誉心が少し強い人だから」と少し批判めいたことを言ったら、即座に「そんなことは当たり前のことではないですか」と強く叱られた。いつの間にか、自分は名誉心がない人間になっていると勘違いしている自分がいて本当に恥ずかしい思いをした。
#2.宗先生がM 先生とH 先生の入院されている病院にお見舞いに行って、最初に「お体の具合どうですか」と聞いたら、「そんなことは医者に聞いてくれたまえ」と言って、仏徳讃嘆のお話をされた。見舞いに行った者が、逆に見舞われたとつくづく思った。 私たちは、いつの間にか世間の物差しに立っていて、それに気がつかなくなる。 私は、師との出会いで聞いた教理は忘れたけれど、そういう私の本当の姿にたち返えさせて戴くと言うか、日常性がひるがえされるという出会いが非常に印象に残っている。
 そして、最後にその頃各所で法話に呼ばれていた私たちに「君たちは最近、偉くなったからね。僕は今から勉強だよと」と言われた、人の前に立っていつの間にか分かった顔をして話をしていた私に、「仏様の前に帰れ」と言われた気がした。
 我々は見たり、聞いたりして認識したことには合理的に反応していると思うのです。しかし、見える内容が違ってくるということです。(1)ものの表面しか見えない見方………世俗の見方。(2)モノの表面とそのモノの背後にある意味を見ていく見方………心理学・哲学など学問的な思考をする見方。(3)仏の智慧、無量光によって照らし出され、自我意識が照らし破られる驚きの観点………智慧の目、内観(道)、宗教的な見方。それらの三つの見方ということができます。前述の(2)は(1)包含しています。(3)には(1)、(2)は包含されていると理解してよいと思います。これらのうち、物事を”あるがままを、あるがままに“より正しく見ている、すなわち真実の見方はどの見方でしょう。私は仏教の智慧の目で見る見方が、あるがままを、あるがままに見ていることになると思っています。
 家庭を持つ女性が夫のことを批判する時、「外面(そとづら)が良くて、家のことを少しも考えない」ということをよく耳にします。男性は対象化の視点で見えていることに素直に反応しているのでしょう(夫は公を大事に見て、私的な家庭のことは従的に見ている。女性は家庭を大事にしてくださいとの気持ちの表出)。夫が滅私奉公的な世界を生きているということの表れでしょう。これは世俗の一般の男性の見えている世界の比重が女性とは異なるからでしょう。(2)は注意深く見て行きましょうという立場ですが仏教の智慧のような深さが無いと思われる世界です。(1)(2)と(3)の間には断絶があると思われます。智慧ということで次元が違うということです。
 世俗の対象化した傍観者的な視点での最大多数の最大幸福(最小少数の最小不幸)を目指す、政治や一般社会の状況で物事の全体像が見えているかどうか……。一方、仏の智慧(無量光)で私の内面をも含めて全体を見透す、いわゆる仏の六神通力での全体を見る観点ということを問題としたのです。
 我々はできるだけ情報を多く集めて思考して、その時その場面でより適切な判断をしたいと思っています。人生とは取り返しのつかない決断の連続ですから。思考材料としての情報が多いかどうか、正しく全体が見えているか、あるがままに現実が把握されているかが問われるのです。高校時代、数学の解答を書く時に、ある条件の場合わけをして答えを書いていたことを思い出します。その時は場合わけを適切にしないと全ての条件を網羅できずに、間違うことになるからです。
 しかし、我々の実人生では、判断に不十分な情報でもその時点での精一杯の判断を下していくしかないのが我々の人生です。そのために世俗での知識をできるだけ増やし博学になることが求められます。しかし、それでも仏教の智慧が足りないことは決定的に無明であると指摘されるのです。世俗の知識を増やした博学になる、その延長線上で智慧を身につけるのとは違うのです。蓮如上人はいくら世俗の知識を増やしても、仏教の智慧が無ければ「悪戯(いたずら)ごとよ」と指摘しています。
 自分自身を見る視点の浅い、深いによって物事の判断がなされるが、その浅い・深いの度合いによってその後の展開が虚しい愚痴の人生か、実りある豊かな人生かに分かれていくかの可能性があるということ思って書いた文章でした(4月の案内文)。

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