6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)
最近の種々の公開された文章で、最初のところに東日本大震災に触れてお悔やみの文章を書かれていることを眼にします。書かれた人にとやかく言うつもりはないのですが、我々が相手のことを心から思ったり、同感することの難しいことを思います。
車の中で法話のテープを聴くのを楽しみにしていてテープやMD CDなどを繰り返し聞いています。前記したことに関係するのですが、S 師の法話の中で3,4歳ぐらいの子どもに新聞に掲載される写真記事を見ながらその内容の説明をよく話していたそうです。ある時、船の遭難の事故があり、ヘリコプターで捜索救難活動をしている写真が掲載されていたという。
その写真を見ながら、「これは船が遭難して行方不明の人が4人いて、海上保安庁の人が、海の中に、どこかに助けを求めている人がいないかどうかを空から探しているところなのよ、かわいそうにね。」と説明をしたという。すると子どもさんが感極まったように「お父さん! 探しに行こう」と言ったそうです。S師の住所は海に行くのには車で 4−5時間かかる所であったという。 S師は子どもに、遠方であるので行くには時間がかかること、海に行っても岸から離れている沖であること、海に行っても人を助けるだけに十分に泳げないこと、などなど話をしたそうです。すると子どもが「お父さん、大丈夫! 浮き輪があるから」と真剣に言われたという。 3−4歳の子供は純真ですね。 小賢しさに汚染されていない。それに引き換え我々大人の言葉のなんと実のないことか……、「南無阿弥陀仏」とお念仏せざるを得ません。
物事の理解に頭で分かる知解(ちげ)と身体全体でうなずく体解(たいげ)があると思われますが、現代人はいつの間にか頭でっかちになって頭で考えることを優先していると思われます。
最近ある学生さんから「年配の方で、自分は思いのほどは全部やってきたからいつ死んでもいい、という人がいるが、そういう人に関しては死の不安とかはないようですが、どう考えていけばよいでしょうか」という質問を受けた。
いろいろな心の状況でそう発言する人はいるでしょうが、それでは明日死んでください、というとそれはちょっと早すぎるというのではないでしょうか。頭で考えて「いつ死んでも良い」というような、カッコのよい(?)ことを言うでしょうが、それは頭の中のことである可能性があります。 いつ死んでも良いのであれば、今から絶食絶飲をすれば1週間ぐらいで死ねるのではないでしょうか、でもそうしないでしょう。もし絶飲絶食を始めたら、必ずのどが渇いて水分が欲しくなるでしょう。お腹がすいてきて食べたくなるでしょう。それは頭ではいつ死んでも良いと豪語しても身体の方は種々の要求を出してきて生命維持に行動を起こさせようとしているのです。頭の中の心・意識が私でしょうか、身体全体が私でしょうか。仏教は身体全体でのうなずき、実感を大切にしています。 学生さんとは死の不安とは別の話になった説明みたいな対話をしてしまいましたが、我々の頭の中の意識優先みたいな考えの問題点を仏教は教えてくれていると思います。
ある識者が「脳化社会」「都市社会」と命名して言われたことは頭の中の意識が優先され、自分の思いを尊重して、思い通りにしたいという思考の延長線上で現代日本の社会が構築されてきたし、今後もそうなって行くだろうと思われることを指摘しているのです。 しかし、「想定外のことが起こってしまいました」というのが今回の東日本大震災と津波です。 地球という自然があるがままに自然現象を展開している中で我々人類が「今、ここに生きている」事を再認識させる出来事でした。我々の思いがどうであろうと宇宙の自然現象が自然(じねん)と進行していっているということです。
人間は自然現象を解明しようと長年、取組んで来ました、かなりの部分が解明されてきたと思っていましたが、佐藤勝彦氏(宇宙論)は「宇宙の成り立ちはどこまで分かっているのですか?」(WEDGE, 2007, November, p 85)という質問に「(前略) 19世紀末に『物理学は終わった』といわれたほど完成していたニュートン力学の体系は、1905年アイシュタインの特殊相対性理論が打ち破った。 宇宙のシナリオを“理論”がつかみ、それを”観測“で裏付けていったのが20世紀の物理学である。 しかし、同時に新たな謎が生じている。 それは宇宙を構成する物質の問題だ。私たちの身体をつくっているような普通の物質は、宇宙のたった4%で、あとの96%は正体不明のダークマター、ダークエネルギーである。驚くべきことに現在の宇宙のダークエネルギーに働く斥(せき)力により第2のインフレーションとも言うべき加速度的な膨張を始めている。まもなく欧州素粒子物理学研究所のLHCという大きな加速器が動き出すが、そうすればダークマターの正体が見つかるかもしれない。しかし、ダークエネルギーの正体は皆目わからない。アイシュタインはこう言った。『深く探求すればするほど、知らなくてはならないことが見つかる。人間の命が続く限り、常にそうだろうと私は思う』。」と記されている。
人間の社会は英知によって自然を克服して人間の管理できるものとしていこうとあらゆる分野で志向してきました。人類の生命が続く限り、今後もその流れは止まらないでしょう。 我々が頼りになると思っていた我々の分別(理性、知性)そのものの、有限性、知られていないことがたくさんある、知らなければならないことが次から次へと展開していくこと等等、世間の事柄に対応するにあたって謙虚に処していかなければならないとあらためて思われます。 しかし、人間のする反省はどうしても限界があるようです。仏の智慧に照らされてみると反省する主体が迷いの存在だからです。仏(目覚めた存在)に照らされる歩みが求められるゆえんでしょう。 |