7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)
東日本大震災の救援・復興のボランティアで数回参加した私のゼミの院生の感想文が聞法のグループの雑誌に掲載されました。その一部です。
(現地の悲惨な状況、活動報告をしたあと、歎異抄の第四章を引用しながら)、
私のようなものがいくら小賢しい燐憫の情や惻隠の情を発動して助けたいと思っても、思い通りにならないことばかりで最後まで助け遂げることなどは到底及びもつきません。お念仏して末通る大慈悲心におまかせできるようになれば有難いのでしょうが、念仏者でない人にはそれも通用しません。
せめて、この私がちょっとでも現地に立つことで私の歩む後ろ姿をみてもらい、何か感じて頂ければと、ただそれだけの思いで関わらせていただきました。決して名聞、利養、勝他をもって関わったのではないことだけは断言できます。(後略)」(名聞、利養とは世間の名声を得たいという欲望と、財産を蓄えたいという欲望。勝他とは他人に勝(まさ)ろうとする思い。競争心。)
彼の人となりを良く知る立場から彼が名聞、利養、勝他の気持ちがあって行動を起こしたというよりは直情的にボランティアに参加したようだと言うことはうなずけるところです。しかし、最後に「名聞、利養、勝他をもって関わったのではないことだけは断言出来ます」と書かざるを得なかったというところに、名聞、利養、勝他の心にとらわれていることが如実に表れています。
仏教の教えから、名聞、利養、勝他はいけないと言っているように聞こえるかも知れないのですが、それに囚われたり、振り回されたりすることを戒めているのです。
我々の現実はこの世では名聞、利養、勝他を考えずには小賢しく勝ち抜いて生きていけないのです。そういう現実を懺悔しながら念仏して生きていくのでしょう。
仏教の智慧の説明で次元の違いということをお話し下さった師の話が私を納得させるものでした。それを応用して説明するとすれば、
我々が日常生活をしている場は三次元(縦、横、前後)にプラス時間の次元、即ち四次元の世界を生きているように思われます。四次元の場で生活をしている時、宇宙飛行士が地球に帰還して飛行船から出てきたときに普通の人と同じように歩くことが出来ない現実を見ると、不思議に思い、なぜだろうと思う人はいると思います。
現代日本人は教育が広く行われているために、無重力状態から重力の働いている地球に帰ってきて体重を支える筋力や自律神経のバランスが低下しているためであるという説明を聞いてすぐに理解を示すでしょう。しかし、四次元だけではそれは説明つかないということです。重力という次元が我々の生活する場には無意識のうちに働いていることを示しているのです。重力を加えた五次元の世界でみると、その現象をよりよく理解することが出来ます。高次元から低次元を見ると低次元の全体像が見えるということだと教えてもらったことがあります。同じような譬になりますが、広い知識が必要ということに関して次のような、アメリカのある宗教グループの親子の小話があります。
「厳しい環境で生活することで有名な某宗教団体に所属する父と子が、どういう事情からか住んでいるコミューンを出て、初めて大きな町へ行き、デパートへ入ったのだそうです。当然、目にするもの耳にするもの、親子にとって初めてのものばかりです。
その時、息子がエレベーターの前に立っていると、デパートの利用客が乗り込んだり、降りたりしていたといいます。我々にとっては別に珍しくもない光景ですが、仕組みのわからない息子にとっては、エレベーターが「魔法の箱」に見えたのでしょう。びっくりして父親を呼びました。『お父さん、大変だよ! あの箱に入ると変身しちゃう!』。
呼ばれた父親がじっとエレベーターを見ていると、まさにその時、老婦人が乗り込みました。じっと注目して成り行きを見守る親子。しばらくしてエレベーターのドアが開くと、現れたのは、若々しい女の人でした。父親は何事か考えている風でしたが、やっと口を開きました。『早く、家に帰ろう。-----ママを連れて来なきゃ』。
前記の院生は素直に感じたことを書いてくれていたために彼の考えていることの課題が仏教の智慧の視点で見えてきます。蓮如さんは蓮如上人御一代聞書で次のように言われています。
「物を言え、物を言え」と仰られ候。「物を言わぬ者は恐ろしき」と仰せられ候。「信、不信ともにただ物を言え」と仰せられ候。「物を申せば心底も聞こえ、また人も直さるるなり。ただ物を申せ」と仰せられ由候。(島地聖典30-13、西聖典注釈版1259、東聖典871)と言われているように彼の発言や文章表現で仏法の頂きの課題が見えてきます。それと同時に、それを見せてくれる彼の存在は、結果として私に仏法を分かりやすく教える存在、菩薩的な存在であるのです。ある高齢婦人の発言、「仏さんを大事にしています」は種々のことを教えてくれます。智慧の視点でみると、仏さんを大事にしていない(尊重していない)ことを露呈しています。しかし、発言する本人は素直で常識的な思考で、感じたことを素直に表現しているのですが、心根に、私は仏を大事にする、能力、体力、財力があるという前提での発言になっているということに気づかれていないのです。それは「大きなものは述語になれない」という日本語の原則を考えると分かります。仏さんを大事にしているという本人は、結果として仏さんよりも偉くなっているのです。それは我々の理知分別の在り方と密接に関係しています。その為に厳密に言うと仏を粗末にした表現になっています。
知識があっても偏見・思い込みがあると物事があるがままに見えなくなるのです。次の文章はそれを教えてくれます。
ある二人の裁判官の会話 : A裁判官がB裁判官に尋ねた。「あなただったらこの被告をどう裁きますか。」B裁判官は「私には答えることが出来ない事をご存じでしょう。なぜならこの被告の父親はすでに3年前死んでいるし、この被告は実の子供ですから」 ……… これはどう理解すればよいでしょう。
ある外科医の話:父親と息子が日曜日ドライブを楽しんでいて、運悪く交通事故に巻き込まれた。父親は即死し、息子は重傷を負った。重傷の息子は救急車で病院に運ばれた。待機していた外科の当直医は、運び込まれた少年を見たとたんに「私の息子だ」と叫んだ。 ………この内容についてみんなに分かるように説明してください。
事実が我々を正しい方向性へ導くのです。 |