8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)

「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演 2011.1より)(第1回)

(1)はじめに
 今日は「念仏はなぜ難信なのか」ということで、最近思っているところを紹介させていただきます。
 浄土真宗のお念仏の教えというのは、口で念仏することは簡単ですが、本当に念仏をいただくということが非常に難しいです。たとえば、宇佐という所は以前は豊前と言われていまして、小倉から行橋、宇島、中津、宇佐までは豊前の国。その豊前地域はわりに浄土真宗がさかんなところなのです。中津市、豊前市、行橋市のあたりの方がより盛んなようです。
 宇佐市の場合、たとえばお葬式の時に、浄土真宗のお葬式のときに、途中の区切りの時に司会の方が合掌といってそのあとちょっと間をおいて礼拝といいます。望ましいことは合掌と言ったあと必ず、「なんまんだぶ、なんまんだぶ」とお念仏をすることが期待されているのです。しかし、僧侶の方以外では、お念仏の声は殆どありません。その後、儀式の終わり頃に、宇佐の方では僧侶が正信偈を唱和している途中に「お焼香」ということになります。お焼香をされている人の口を観察して見ますと、ほとんどの人は念仏をしないのです。お焼香をして、合掌だけして礼拝をしていることが殆どです、きちっと口を閉じてです。念仏はなかなか聞こえません。
 最近、中津の方でお葬式があってお参りをしました。そこでは司会の方が、「合掌」、「お念仏」、「礼拝」と言われました。そうするとそこでは宇佐市の場合よりはお念仏をする人がありました。それぐらい「なんまんだぶつ」というお念仏は当人自身が主体的に意思をもって「南無阿弥陀仏」、と念仏するのが難しいのです。どうしてかな、といろいろ考えてみた次第です。

(2)わけの分からん南無阿弥陀仏なんて言いたくない
 私のお話でたびたびご紹介する、私の所に通院されている86歳になる元中学の数学の教師、この方が、浄土真宗の門徒さんで、ある病気で私のところにずっと通ってきています。そして非常にお元気なんだけど、将来に病気が悪化することを心配して、いろいろ取り越し苦労の訴えをされるのです。時々、愚痴みたいに言うから、私が「先生、もう平均寿命をかなり超えていますよ。仏教の勉強をしませんか」と言ったら、「わしはまだ早い」とこう言われるのです。そういう対話がたびたびあるから「先生、南無阿弥陀仏の意味がわかったらもうちょっと鷹揚に生きていけますよ」とこう言ったら、「わけの分からん南無阿弥陀仏だけは言いたくない」と真宗の門徒さんが言うわけです。それぐらい南無阿弥陀仏というのも、本当は口で言うのは簡単なのです、けれども、それを、自分のプライドが言わせしめないわけです。なぜ南無阿弥陀仏がそれぐらい言いにくいのかということです。
 私の知っている方で、神戸の方でインテリの方ですが、ホームページの中でいろんな仏教の解説のことを書かれています。その方を二度ぐらい訪ねて行ったことがあります。その人といろいろ話しをしているうちに、その方が「私は仏教がわかったら、念仏します。仏教がわかるまでは念仏しません」とこう言うわけです。
 現代人というものはわけの分かるものを積み重ねて人生を生きてきたから、それをずっと続けたいわけです。途中でわけの分からないものを自分の中に組み込んだりすると非常に危うい思いがして、不安になるということです。頼りになる確かのものをしっかりと組み立てていって、私の人生を生きていこうと思っているわけです。しかし、私たちはこの自分のわけの分かるものを積み重ねていったら、本当に人生を思い通りに生ききっていけるのかということです。加齢現象が進み、次第に老病死に出くわし始めると、わけの分からない老病死が身についてくるのです。わけの分かるものを積み重ねてきたのだけれども、思いどおりにならない老病死の現実に対応が難しくなるのです。
 この老病死というものをどう受け止めて生ききっていくかということが課題になると、仏教の四苦を超える道、仏道が本領を発揮するのです、悟り、信心をいただく世界で四苦を超えて生き切る道が展開します。そこでこのお念仏を称えるということが大きな力になるわけですけども、なかなかそれが一般の人々に理解できないわけです。
v (3)仏さんがいらっしゃる
 司馬遼太郎という有名な作家が大学を卒業して産経新聞の記者をしているときに、京都の京都大学と本願寺の係をしていたそうです。その時に本願寺に行ったときに「浄土はあるのか」と本願寺のお坊さんに質問したら、本願寺のお坊さんが「浄土はあるとかないとかの上にある」と言ったそうです。非常に適切なる答えだと司馬さんはいわれているようですけども。
 私たちの現実の社会から見ますと、「浄土はあるのか」と質問されると、答えは「ある」か「ない」、それ以外に考えられないじゃないかと、こういう考えがちであります。「ある」とか「ない」ということでいうならば、私の仏教への大きなご縁は九州大学の学生の時に、友人が入寮していたことと、部屋代がただということで九州仏教青年会の寮に入ったことです。その縁が転じて細川巌先生に出遇って、もう40年近く浄土真宗のお育ていただくことになりました。聞法の歩みの中で、ちょうど私が40歳の時に先生にある質問をしたことがありました。それは「がんの末期とか、だんだん弱くなっていく方に、どういう言葉かけをしたらいいでしょうか」ということを質問したわけです。40歳をちょっと超えたころ時にでした。
 その質問したときに先生はふたつのことを言われました。一つは、「お任(まか)せする」ということをしっかり言ってあげなさい。確かに医療のことは医師、看護師にしっかりおまかせする。家庭のことは家族におまかせする。職場のことは同僚におまかせするという、おまかせするということをしっかり言ってあげなさい。もう一つが、「仏さんがいらっしゃる」ということをしっかり伝えなさいとこう言われました。私はちょうど40歳を超えたばっかりのときでした。 「仏さんがいらっしゃる」ということをしっかり言ってあげなさいと言われましたが、この時、私は「仏さんがいらっしゃる」と自信を持って言えなかったのです。
 なぜかというと、「仏さんがいらっしゃる」ということはどういうことなのかということが分からなかったのです。分からないというか、わたしの言葉で言えないわけです。ということは「仏さんがいらっしゃる」ということへの受け取りがはっきりしていなかったのです。だから「仏さんがいらっしゃる」と言ってあげることができないのです。
 先ほどの浄土とは「ある」とか「ない」かの上にあるのだということと非常に似た問題で、「仏さんがいらっしゃる」ということをしっかり言ってあげなさい、と言われたときに、私たちはどういうふうに伝えることができるだろうか。ただ、その言葉をそのままオウム返しみたいにただ言うだけでは力になりませんから。そこに本当にどういうふうに仏法をいただいているかということが問われたわけです。
 仏教を勉強して、南無阿弥陀仏という言葉の意味がわかるものかどうかという問題もありますが………。養老孟司という先生が講義をしていたときに、学生さんがよく、そこのところがよくわからないからもうちょっと詳しく説明してくださいと質問することがあると。そしたら養老孟司先生が「説明してくれれば分かるということの傲慢さの中にいることに気が付かない」とこう言われているわけです。そう言われると元も子もありませんけども、説明してくれれば分かるということの傲慢さの中にいるのだと。南無阿弥陀仏という仏教の言葉でもそういうことのできる一面はあるかも知れません。「念仏はなぜ難信か」ということを考える時に、私たちの分別を超えるところの問題をどういうふうに考えて、納得していくかということです。(つづく)

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