9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)

「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演、2011.1.より)前回よりの続き(第2回)

(4)仏教は智慧の次元
 細川巖先生は、そこ辺のところを次元という数学の考えでお話してくれたことがありました。一次元というものは一本の直線の世界。一本の直線です。二次元というものは面の世界です。面という広がりを持つ。一次元と二次元の違いというのは、一つ次元が高くなる。仏教で言うならばプラスα、すなわち仏さんの智慧をいただくという広がりがでてきます。
 一次元は一本の直線ですから、たとえで言うならば小学校なんかに行くと平均台というのがあって、子供たちが遊んでいることがあります。そのうえで遊んでいる時に、両端から子どもが進み始めるとします。そうすると真ん中ぐらいで、ぶつかりそうになるでしょう。すると「私が前に進む」とお互いに言い合って行こうとすると、争いになります。そうすると押しのけるか、いっしょに落ちるか、そこでは必ず勝ちか負けになるのです。勝った者はたぶんそのまま前に進めるでしょう、負けた者はそこで落ちざるを得ないというわけです。一本の細い道をお互いに行こうとすれば、けんかになって、勝ちか負けしかないわけです。
 だけども、仏教の智慧の次元でいくと、考えることの幅が出てきますから、線から面への展開があるわけです。道の幅が広がると、ちょっとよけることができるわけです。道をお互いに進んできてぶっつかりそうになると、ちょっと横によけて、よけ会って、そしてあなたはあなたの道をいきなさい。私は私の道を行きますといって、本来の進む方向の道を進むことができることになります。ここに共に生きる(共生)、私たちが勝ち負けしかないのではないかと思っていたものが、「共に生きる」という世界が展開するということが仏法の智慧の世界といただくことができます。
 先ほどの数学の先生でもそうですが、80年間の人生で、浄土真宗の門徒といえどもお寺にほとんど行ってなくて、仏教の教えとはほとんど接点をもたない者は、世俗の生活でずっときていますから、そんな仏教の世界は信じられないと。わけの分からない南無阿弥陀仏、と言わざるをえないわけです。ということは、一次元の世界から二次元の世界を理解しようと思ったら全然理解できないわけです。だけども二次元の世界に一旦触れたものは一次元の世界がよくわかるわけです。
 この在家仏教を始められた加藤辨三郎先生は金子大栄先生についてお話を聞いたと聞いていますが、その金子大栄先生が講演録の中で、次元ということでこんなことをお話しております。点というものが0次元です。線というものが一次元。面という次元が二次元。立体というものが三次元です。点というのは幅も長さもない一点なんだといってもなかなか理解しにくいけども、直線と直線の交差するところだというと、分かりやすい。直線と直線が交差するところが点です、とこういうと点ということの理解はしやすい。
 では直線とはなんですかといったら、長さはあるけど幅がない。長さはあるけど幅がないといったら、ちょっととらえようがないわけです。幅がなかったら見えないわけです。そこで直線とは何かといったら、面と面が交差したところだ、とこういうふうに考えると直線という線がわかりやすいと話されています。上の次元から下の次元をみると理解しやすい。面とは何かといったら、立体と立体が重なったところだというふうに理解すると面というものがわかるのだとこういわれています。ということは私たちが自分の現実を、私の世俗での現実をあるがままに、よく見ようとするならば、上の次元から照らし出されるということにおいてよく分かるのだということができます。そういう一面があるのではないかと思うわけです。

(5)愚かさへの気付き
 仏教の智慧の次元で私たちが私の現実を見るときに、聖徳太子は「世間虚仮、唯仏是真」と有名な言葉が伝えられています。世間は虚仮であって、ただ仏の教えのみが真実であるといわれています。仏さんの智慧の世界に照らされてみて、私たちの現実の愚かさが見えるわけです。私の現実、智慧がない、愚かさが知らされるのです。
 この「愚か」というのは私たちは学校教育の中で「愚か」ということはなんとなく馬鹿にされたような気がしますから、「愚か」というのはあんまり言われたくないわけです。だから仏教の言う、智慧のなさ、「愚か」ということと、私たちが世俗の生活するうえでの「愚か」ということをどうしてもこんがらがるわけです。仏教のいう「愚か」というのを私、こういうことだなと最近わかりました。“世俗のことは私はよく分かっている”という「愚かさ」です。だから世俗のことはちゃんと分かっているわけです。世俗を生きていく上での小賢しさはみんな持っているわけです。だけども私は分かっているということの「愚かさ」の中にいるというのが分からないわけです。だから、分かっているということは、愚かではないということではないかと言いたいわけです。しかし、それがまさに仏教の智慧からいうと、仏さんの智慧(無量光)の目で見透かされた時に、私たちは「「愚か」なのだということがわかる。
 だけど、世俗のことについてはそれなりの専門家、知識も豊富、博学であるということはよいのです。だけど、その世の中のことは分かっているということの、「愚かさ」に気づかないとこういっても、世俗でいったら何のことをいっているのか……となるでしょう。
 世俗での知識・知恵があるということと、仏教のいう智慧は質が異なるということです。世俗の知恵は小賢しいと表現するように、物事の表面的な価値を計算する見方です。利用価値があるか、ないか。役に立つか、たたないか。迷惑をかけるか、かけないか。何万円の価値があるなどで示されるものです。一方仏教の智慧は、物事の背後にある意味、例えば、見える命は見えない命によって支えられている、ということを感得する智慧ということです。

(6)浄土の教え
 普通、仏教を考える時、お釈迦さんは出家をされて、身体を苦しめる行(荒行)をして、悟りを得ようとされたが、それは無理だということに気付かれた。それから瞑想に入られて、悟りにたどりついたと。身と心を修めて、修行をされて仏さんになった、覚者になった、目覚めた人になった。これが仏教の正統派といいますか、長い間これが仏教というものの正統な道でした。今でも大きな位置を占めています。その目覚めた内容をお釈迦さんがいろんな相手の器量に応じた教えをお経として説かれたのです。
 その中の一つに阿難を相手に仏説無量寿経が説かれました。そこには浄土の教えが説かれています。その浄土の教えでは、本来は私がしなければならない、身と心を修めることの全部を、法蔵菩薩が代わりに全部してくれている。そし  その法蔵菩薩が身と心を修める修行を全部かわりにしてくれて、その功徳たち(迷える私)を救わんがために名前、名号、念仏となって、すなわち南無阿弥陀仏という名前となって私たちに仏さんの「智慧」と「いのち(寿命)」を届けたい。そしてそれを受けとめて「南無阿弥陀仏と念仏するものを浄土に迎えとる」という教えです。お浄土は我々は無試験(無条件)で必ず仏の世界(涅槃)に渡し成仏せしめるという場です。そのお浄土に私たちを迎えとる、念仏する者を浄土に迎えとる。これが浄土の教えです。(つづく)

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