10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)
「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演、2011.1. より)前回よりの続き(第3回)
(6)浄土の教え
これを聞くと私たちはどうしても世俗の分別で聞きますと、もうすでに私の代わりを法蔵菩薩がしてくれている。その功徳を南無阿弥陀仏という名前・名号にこめて、私に与えようと用意してくれている。あとはあなたがそれを受け取るか受け取らないかのどちらかだけですよ、というところまで用意してくれている、と教えるのです。そう言われると、ちょっと話がうますぎるな。そんな念仏をとるかとらんかだけだといわれても、それはあまりにも話がうますぎているし、南無阿弥陀仏と念仏したぐらいで、なんにもならんじゃないかとこういうふうに思って、なかなかお念仏が受け取れないわけです。南無阿弥陀仏と念仏することを勧められると自分を馬鹿にしているのではないかと受け取ることもあり、南無阿弥陀仏が信じられないわけです。わけのわからない南無阿弥陀仏としか言いようがないわけです。だからまさに難信なわけです。
我々の思考方法の対象化は、物事を見る時に「疑い」から始めます。それは利用価値があるか、ないか。それは私に好ましいか、都合が悪いか。その人は私の味方か、敵か。心を許せる人か、注意しなければならない人か、というふうにです。だから「南無阿弥陀仏」はいったい何者だ?、となるのです。「念仏する者を救う」なんて話がうますぎる、愚かな者をだますような言葉ではないか、どこか問題があるに違いないと考えてしまうのです。
小さな声でこそっと、「南無阿弥陀仏」と言えるのですが、それを自分が本当に主体的に「南無阿弥陀仏」と言って、お念仏の生活をするということになるかというと抵抗があるのです。まして、みんながいる前で「南無阿弥陀仏」なんて念仏するのは、なんとなく気恥ずかしい感じがしてしまうのです。まして仏教に縁のない知人の前では、人の目を気にして念仏することは難しいのです。念仏が言えないわけです。それが難信ということです。
(7)念仏することの難しさ
仏の教えに照らされて自分の智慧のなさ、愚かさに気付かないと、自分は知っている、世俗を生きるための知識を十分に持っている、世の中のことは裏も表も分かっている、と自負する者はどうなるかというと、私は分かっているということになると、私たちは次の思考はどう展開するかというと、いろんなものがらに対してそれは善い・悪いという判定をしたり、あれは何々だといってレッテルを貼るとか、優劣を評論するように発言する傾向になります。そしてそこでは深く考えない、なぜか、分かっているから。よくテレビやマスコミで、評論家やコメンテーターという人たちが、あれが善いとか、あれが悪いとかいう判定や判断をして評論をしています。私たちもテレビを見たり、新聞を見たりすると、あれが善いとかあれが悪いとか、ああだこうだとレッテル貼ったりして決め付けてしまう傾向になるのです。これが、考えないということの一番困ったところです。なぜか、というと、分かっているからです。私は知っているのだと自信があるからです。
先ほどの数学の元先生が私に仏教の対話をしている中で、こういうことを言われます。「仏教は難しいですね」とこういうわけです。そしてもう一つは「いろいろな考え方がありますからね」と、こういいます。「仏教は難しいですね」というのは私たちは判断ができる、分かっているのだと、だから「難しい」といっているわけです。「いろいろな考え方がありますからね」というのは、いろいろな考え方を私は知っているのだ、だから「いろいろな考え方がありますからね」とこういうわけです。私は分かっているということの「愚かさ」におるということが分からないわけです。私たちの分別を超えた仏の世界、それがまさに難信ということです。
そしたら、どうしたら分別を超えた世界が分かるのだろうかと、頷(うなず)けるのだろうかということになります。
(8)竪出から横超へ
仏教の目覚め、分かり方に、「竪(たて)」と「横」、「超」えるということと「出」るということで説明がなされます。仏教の学びの中で念仏の教えは横超(おうちょう)の道といわれます、横ざまに超えるのがお念仏だということです。竪方向というのが本来は正統派なのです。横というのは本来、正統派から見ると正統でない、善くないわけです。だから横という言葉が入ってできた言葉というのは横領するとか横槍を入れるとか、人間の道としてはずれた道のときにだいたい横という言葉で表現をすることが多いのです。 出るというのは一歩一歩迷いから出ていくわけです。 亀が前に進むが如くに非常に堅実なまじめな取り組みになるわけです。一方「超」えるということは、ウサギがぽんぽんと飛び跳ねるが如く、ぽんと超えていくわけです。
一番堅実な方向・方法は竪方向に一歩一歩、出ていくのが一番堅実な方向なのです。仏教でもそうなのです。それを日本で教えてくれているのは法相宗だと思われます。
薬師寺とか法隆寺とか清水寺とかの歴史のある有名なお寺は法相宗の宗派だと聞いています。いろいろ独立した宗教法人に分かれたりしていますけども、基本は法相宗です。法相宗の教えでいろいろある中で有名なものに唯識というのがあります。唯識といって人間の深層心理を末那(マナ)識だとか阿頼耶識(アラヤシキ)だとかいろいろ分析して私たちに教えてくれているものがあります。
教えの中の一つに、仏教を分かっていく歩み、道を法相宗ではどういうふうに言っているかというと、まず第一段階としては仏教がわかるためにいろんなものを集めて、情報を集める位を資糧位(シリョウイ)と言います。これは資料とか食糧の糧。だから仏教がわかるためにいろいろなものを集めて、情報を集める位を資糧位というわけです。これは、いろいろ聞いたり、考える段階です。 次のランクが実際、行(ぎょう)をしていこうという位で加行位(ケギョウイ)という位があるわけです。仏教の理解のための情報を集めて、そして実際の「行」をする、座禅をするとか念仏するとか、回峰行をするとか天台宗では比叡山をまわる回峰行というものがあるようです。いろんな教えの中で教えてくれている行をしていく。そうすると次に通達(つうたつ)位というところにたどりつくとこうなっております。これを仏教でいうと、悟りとか信心という位なのだと。そして4番目は修習(しゅじゅう)位という、これは本格的な行をする位だと。そしてついに仏さんの位、究竟(くきょう)位というところにたどりつくというようになっているのです。これは非常に私たちにとっては分かりやすいわけです。小学校の1年、2年、3年、4年、5年と、中学校、高校、大学と一歩一歩すすんでいくのだなと。だから非常に堅実で一歩一歩すすんでいくことで仏さんの位にたどりつくというのはわかりやすいです。
私も20代のときにこういう話を聞いて、これでいけば善いんだなと、なんとなく方向性がわかるような気がして、仏教の方法が分かったような気になったこともありました。これが本来の釈尊のたどった道、正統派として伝わってきているのです。
しかし、実際やってみると、3番目の通達位の前で壁があって、この壁がなかなか超えられないわけです。壁の前で行きつ戻りつ、行きつ戻りつを繰り返さざるをえないわけです。なかなか分からん、なかなか悟り・信心の世界に行きつけない。といって2番目のところでとどまって、いつのまにか私には仏教は難しい、私は仏教の器ではない、と仏教から脱落していくことも多いわけです。(つづく) |