11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)

「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演、2011.1. より)前回よりの続き(第4回)

(9)量的思考から質的思考へ
 これと似たようなので、仏教がわかっていく歩みのようなものに、十信、十住、十行、十回向、十地、そして五十一が等覚(とうがく)、そして五十二が妙覚(みょうがく)というのがあります。だから一歩一歩、凡夫が一歩一歩進んでゆく、十地というのが菩薩の位だといわれているわけです。菩薩さんの位。仏さんに近い状態です、四十一から五十までが菩薩さんの位だそうです。
 菩薩さんと私たち凡夫はどう違うのかということを考えてみますと、年末の大みそ日にお寺では除夜の鐘を叩(たた)きます。叩く時に何個叩くかというと、百八。あれは煩悩の数だと言われていますけども、私の知っているおは叩きに来た人全部に叩かせるそうです。百回でも、二百回でも来た人にみんなたたいてもらっています。別に百八に限っておりませんと言っておりましたけども。私たちには百八の煩悩がある。菩薩さんはどれぐらいの煩悩があるかと言うと、もう煩悩をほとんど超えていらっしゃるわけです。
 菩薩は煩悩がだんだんなくしていって、一つだけ煩悩がのこっているというのです。どういう煩悩かというと、人を救いたいという煩悩だと。だから願作仏心(がんさぶっしん)と言って人を救いたいという願いであるというのです。私たちから言ったら、人を救いたいなんていったら煩悩に入らないと思うのです。すばらしいことじゃないかと言いたいのですけども、仏の目から見ると人を救いたいというのは煩悩だと言うのです。
 私たち凡夫の煩悩の多さに比べれば高嶺の花というか、菩薩さんは、まさに仰ぎ見るようなところにいらっしゃる。
 浄土真宗で言うならば七高僧の中の最初の二人、龍樹菩薩、天親菩薩です。この二人は何故、菩薩と敬称をつけているかなという思いがあり、私はまだそのことが十分に理解できていません。大学で他の先生に聞いてみるけど、いろんな意見があって、今一つはっきりしません。龍樹菩薩、天親菩薩はインドの方で、お釈迦さんの生まれた国の方であるからだろうという人もいました。私はあの方たちは実際、菩薩の位までいかれたのではと思われます。
 仏さんと菩薩の違いはどこかと言うと、仏さんは悩める人を救いたいという思いもなくして、自然に、結果として救っておられるといわれています。
(10)仏の世界は零点か百点
 仏さんの目から見たら凡夫と菩薩はどう違うか。菩薩さんと凡夫は仏さんの目から見たら一緒だというのです。どうして一緒かといいますと煩悩があるかないかの違いで見たら一緒だというのです。質でみると99点の菩薩さんも0点の凡夫も「煩悩がある」ということにおいては同じだ。ということは、仏教というのは100点になるか0点かのどっちかしかありませんよと。
 そうしたらなんで仏教はこんなランクを作って教えの中に説かれているのかということです。その理由は私たち人間の分別にわかりやすいように説いてくれているのだと。私たちの分別の思考には一歩一歩迷いから出ていくというのは分かりやすいからだというのです。努力に比例して進むとか、がんばって位が上に上がっていくだなあ、というのは分かりやすい。私たちの頭にあわせて親切に説いてくれているのだということです。しかし、最終的には救われているか、いないか、100点か0点かしかないのですよと教えてくれるのです。
 そうすると私たちは分かっているということの「愚かさ」の中におるということが、なるほどと頷けるようになるのではないでしょうか。道を求める我々はそれなりにちゃんとやっているわけです。だけども煩悩があるかないかの質でみたら、0点か100点かしかないじゃないか教えられると、仏の前に参った、と頭を下げざるを得ないのです。しかし、世間では賢いこと、分別のあることが自分の依り所ですから、あなたから「愚か」と指摘される筋合いのものではないとなります。「俺は馬鹿じゃないよ」という本音の心が、頭を下げさせないのです。私たちは、(仏教の)智慧のなさ、愚かさということに、気がつくのが難しいのです。
(11)歎異抄第三章の悪人
 もう一つ気付くことの難しさからいうと、たとえば歎異抄の第三章には悪人という問題が出てきます。この悪人ということも分かっているということの愚かさに非常に近い理解の仕方をしないと分かりづらいということがあります。さきほどの「仏さんがいらっしゃる」ということをしっかり言ってあげなさいと、先生は言われたわけですけども、40歳の時の私は分からなかったのです。
 聞法を続け、仏教の学び、いろんな先生方についてお育ていただいてくると、仏さんというのはなんとなくあるんだなと。 「はたらき」としてあるのだなあ、ということがだんだんわかってくるような気にるのです。仏というのは“はたらき”なんだと。どういう働きかというと、私の世間での生き方が、惑・業・苦(考え方の惑いが、はたらきを展開して、結果として、思い通りにならないという苦に陥るのです)と迷いを繰り返している、虚仮であるということを知らせるということにおいて、仏法は真(まこと)なのだと。私の(我々の)世間のあり方が、迷っているということを知らせるということにおいて、仏教の智慧の働きとして真(まこと)があるのだと頷くのです。
 その「仏さんは、いらっしゃる」ということが聞法したり、仏教の学びを続けたり、お寺に行ってお話を聞いているうちになんとなく、ああ暖かい雰囲気が感じられたりするようになります。そうすると、仏さんがいらっしゃるというのはなんとなく言えるような気が出てくるわけです。
 聞法、求道の歩みの中で、必ずたどるであろう過程があります。それは「仏さんはいらっしゃいますか」という、師からの質問です。その質問がなんとなく受け取れるようになると、次に「仏さんはどこにいらっしゃいますか」という問いかけがなされてきます。雰囲気的に「いらっしゃる」と感じるのだけども、「仏様はどこにいらっしゃいますか」という質問に戸惑わざるを得ないのです。「質問を持つことが救いである」ということを聞いたことがありますが。「仏様はどこにいらっしゃいますか」という問いをもち続けることが大事だと教えられています。
 最近、別府であった聞法の集いで、こういうお話になったときに、「仏さんはどこにいらっしゃると思いますか」と参加者の方に聞いたわけです。そうすると、みなさんはちょっと戸惑い、同時にどう言ったもんかな、という雰囲気でした。そこで私の先生はどういわれたかということを紹介したのです。細川巖先生は「足の裏におるのです」と言われたことがありました。 足の裏におるということは私たちは仏さんを、仏教を踏みにじって生きているということですよと。
 お寺にきてちゃんと話を聞いているから別に踏みにじってないでしょう、大事にしていますよと言いたいのだけども、仏教を学んで私の心の安定を得たい。仏教を学んで何か救われたい。などなど………といって仏教を道具にしているということです。(つづく)

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