11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2555)
「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演、2011.1. より)前回よりの続き(第5回)
(12)目的には尊厳があり、手段・方法・道具には値段がある
物事を大事にするということを考えてみる時、たとえばよく世間では「命が大事だ」とか「命を大事にしてない」とか言うときに、そのことを大事にするとか、尊重するということを考えるときに、どういうモノサシを使うかという問題です。哲学者のカントという方が「目的には尊厳がある」「手段、方法、道具の位置にあるものには値段がある」と言っていると聞いています。
皆さん方が、「私は人間ではなく、物みたいな扱いされた」という時に非常にプライドが傷つくのは、物や道具や手段の位置で扱われたときにはそれは粗末に扱われたということです。お客さんみたいに大事に扱われるとういのは目的のごとくに処遇されたときは大事にされたということです。だから「仏教を大事にしています」といいながら仏教を私の幸せのための道具にしている。私の救いのための手段・方法・道具の位置で利用しようとしているということが、まさに私たちが仏教をふみにじって生きているということです。そういう生き方をしている私を仏教では悪人というのでしょう。悪人とは自覚の言葉です。他人に対して言う言葉ではないと思います。歎異抄の第3章の悪人とはこのことを示していると思います。
世俗で法律を犯して悪いことをしたわけじゃない。だけども仏教に対する姿勢が仏教を道具に手段・方法・道具の位置で扱おうとしている、仏法を物、道具とするということは、扱いとおしては大事にしているというよりは粗末にしていることになります。ことの愚かさ、悪(わる)さを悪人と言っているのです。
一般市民として平凡に日常生活している者には、私は悪いことはしていません、悪人ではありません、という意識でいるために、自分の愚かさとか悪人ということがなかなかわからないのです。
(13)質を異にする世界
仏の世界がなかなか受け取れないのは質を異にしているからだと思われます。世俗の我々の世界の延長線上に仏の世界があるということではないと思われるということです。自分の全体像が観える高い次元の視点が必要ということです。自分の姿に気づくという観点からすると、数学の次元の説明でわかりやすく説明できるでしょう。
はじめにした次元の話で、私は意図して二次元の世界を下に書いて、一次元の世界をその上に書いたのです。その心は、もしかすると私たち世俗の世界、一次元の世界は二次元(プラス智慧の次元)の世界によって支えられているというか、包含されているのではないだろうかという思いがあるからです。
一次元と二次元というのは並列してあるのではなくて、私たちはそういう仏さんの次元によって私たちの世俗の世界はささえられている。だけどそのことに私たちは智慧がないから、智慧がないことを無明と言う、明るくないわけです、わからないわけです。
一次元は二次元の中に包含されていますが、一次元をどんなに量的に延長しても二次元にはならないのです。質的に異なるからです。見える命は多くの見えない命によってささえられている、生かされている、願われている、教えられている、という世界があるのです。
しかし、私は目に見えるものだけは認めるけども、そんな見えない世界は信じられない、という人には、智慧の世界を認めたくないわけです。そういう考えは仏教からいうと智慧がないから無明というわけです。どちらが現実をあるがままに見ているかということになります。
(14)不幸の完成へ進んでいる
その無明の結果、どうなるかといえば、たとえば私たちは仏教がなくても仕合わせになれるのだといって、仕合わせのためプラス条件を自分の周りに一生懸命集めて、仕合わせになっていこうと頑張っていきます。世間のものさしで仕合わせか仕合わせでないかということを測るならば、役に立つことはプラス、役に立たないのはマイナス、病気はマイナス健康はプラス、年をとるよりは若々しい方がいい。死ぬよりは生きていることの方がよい、とこういって、仕合わせを目指して一生懸命がんばっていくのだけども、結局、みんな老・病・死につかまるのです。世間のモノサシで測ると老・病・死はマイナスのマイナスのマイナスです。仕合せ、幸福をめざしながら結果とすれば不幸の完成で人生を終わってしまうことになる。それは頭でよく考えたらわかるはずです。しかし、それを見ないようにして、仕合わせになっていけるのだと進んでいっています。
いつ仕合わせになるのですか、と問われれば。いや今はまだだけど、明日、未来、きっと仕合わせになるだろう、といって、「明日こそ仕合わせになるぞ」、「明日こそ仕合わせになるぞ」と言って死ぬまで仕合わせになる準備ばっかりで終わる、ということにも気がつかない。こういうのを仏教でいったら智慧がないというのです。
だけど私たちの現実は明日こそ幸せになるぞ、このことが解決したら、もうちょっと楽になったら幸せになるぞと常に未来を夢みながら結局は仕合わせになる準備ばっかり繰り返して、人生を終わってしまう。こういう私たちのあり方が仏教でいったら「智慧がない」というのだけれど。世俗の我々はそう指摘されても、「だれも、みんなそんなふうに考えてるじゃないですか」といいます。すぐに「誰も」というわけです。これは我々が仏ではなく「世間を相手の生活している」ということの現れです。仏さんを相手にしたらどうなるのか………。本願寺のカレンダーに数年前、「損か得か私のものさし。うそかまことか仏のものさし」という標語がありました。迷える我々は、いつも、いつのまにか、損か得か勝ちか負けか善か悪かで振り回わされているわけです。
お話を聞いたり、指摘された時、その視点で一回、自分のことを見直してみたらどうでしょうか。こうときに「ああ、本当に、善・悪、損・得、勝ち・負けで振り回まわされているな、というのがちょっと見えてきたとするならば、そこに二次元(プラス智慧)の視点があるのです。そういうのがなければまさに振り回されながら、振り回されていることに気づかないまま、その中で迷って、迷いを繰り返していくしかない。そして愚痴を言いながら「私は世の中のことは分かっているぞ、愚かではない」と言っていくわけです。
(15)見える世界と見えない世界
私たちが仏教がわからない。お念仏がなかなかわからないのは、私たちが生活しているところが世俗の世界ですから、世俗を超えたといわれる智慧の世界をこちら(世俗)の世界から一生懸命わかろう、わかろうとすると、やっぱり難しいわけです。私たちの分別を超えたとしか言いようがない世界ですから。そこのところをわかろうとすると、どうしても無理があるわけです。ここのところを別な表現で説明するならば、太平洋の中にハワイという島があります。同じように、太平洋には海に浮かぶが如く、多くの島があります。
島は表面的に見るならば、島単独で独立、自立して存在しているように見えます。海水の下は普通見えません。しかし、飛行機の上から見ると、島は地球に支えられているのがわかります。(つづく) |