1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2554)
「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演、2011.1. より)前回よりの続き(第6回)
(15)見える世界と見えない世界
私たちが仏教がわからない。お念仏がなかなかわからないのは、私たちが活しているところが世俗の世界ですから、世俗を超えたといわれる智慧の世界をこちら(世俗)の世界から一生懸命わかろう、わかろうとすると、やっぱり難しいわけです。私たちの分別を超えたとしか言いようがない世界ですから。そこのところをわかろうとすると、どうしても無理があるわけです。ここのところを別な表現で説明するならば、太平洋の中にハワイという島があります。同じように、太平洋には海に浮かぶが如く、多くの島があります。
島は表面的に見るならば、島単独で独立、自立して存在しているように見えます。海水の下は普通見えません。しかし、飛行機の上から見ると、島は地球に支えられているのがわかります。
自分という存在を、自己中心に表面的に見ると、私は人の世話になっていない、私は私でちゃんと稼いだお金で生きています、とこう言うようになります。 現代社会は自立することが尊重される世界ですから。そこでしっかりと自分の分別を働かせ自活能力を高めて、人の世話にならず、人に迷惑をかけず、に堅実に生きていくように努力していきます。社会人として一人前の大人になり、自立した生活をしていけば、きっと善い、幸福な人生が送られると私たちは思っています。
この現実社会で、自立している、人に迷惑をかけていないと豪語しながら生きていても、その延長線上で、人に迷惑をかけずにこの世を生き切っていけるでしょうか。不自然なあり方を生きる者は必ず、自然な姿に戻されるのが真理です。島が地球に支えられているように、我々の存在も、本来は多くの物や人によって支えられている、生かされている、願われている、関係づけられて、ここに存在しているわけです。しかし、独立して自立していると智慧のない傲慢な意識はそれを認めないわけです、いや認めたくないわけです。自分が自立しているのだと言いたいわけでしょうが………老・病・死の現実に直面していっても人の世話にならずに生きていけるでしょうか。本来の在り方でないモノは必ず本来の在り方に正されるのです。不自然(非本来)なあり方は必ず自然(本来)なあり方に戻らされるのです。
(16)大きなものは述語になれない
西田哲学で有名な西田幾多郎先生が言われたとお聞きしていますが、「大きなものは述語になれない」と。仏教に縁の薄い一般の人たちと仏教の話題を話しする時、「仏教を大事にしています」、とか、「仏教がわかったら仏教を信じます」と言われる人がいます。私が仏教を大事にする、とか、仏教がわかる、というとき、主語は私です。私と仏教の関係は、大きなものは述語になれないという原則から、私が仏よりも大きい(私>仏)ものになっているのです。
わかりやすく言い換えると、「私は親を大事にしています」というとき、私は親を大事にするだけの能力、体力、経済力がある時に、日本語として素直にうなずけます。もし、「私」という人がいつも親に迷惑をかけて、親のすねをかじっている人であったら、「私は親を大事にしています」とその人が言っても、その言葉が受け取れないでしょう。「何に、言っての、親に迷惑ばかりかけて」と小言を言いたくなります。
私と仏さんの世界を表現すると、私が圧倒的に多くのものによって、仏さんの世界によって支えられているわけですけども、私は仏教がわかるといったときには、私と仏さんの関係は、私のほうが無意識のうちに大きくなっているということができます。仏教がわかったら私は仏教を信じますと言ったときには、仏教は私のわかる範囲のものだと。私の分別でわかる範囲のものだと。だから私は仏教がわかったら仏教を信じましょうといっているわけです。仏教を小さなものにしているわけです。これがなかなか現代人にはわからない。仏教がわかったら仏教を信じます、仏教がわかったら念仏しますといって、仏教は難しいといって、仏教をわかる・わからない、範囲のものだと決め付けて、そして理解しようとしてみたが、私には難しいと判断・判定をしてしまうのです。
少し仏教がわかってくると今度は仏さんのほうが大きいな(仏≧私)というのがわかるようになってきます。でもここイコールがつきますね。これはどうしてかというとやっぱり私たちの分別はお釈迦さんでも法然さんでも親鸞さんでも、あれは人間だった。人間の頭のいい人ががんばったら仏のレベルにいけるのではないかと。だから私たちも、私はできんかもしれないけど、頭の善い人が同じようにしたらきっと、同じレベルにいけるはずだと、こういうふうに思いたいわけです。だからどうしてもイコールがついたりします。
だけども仏法の教えをいただく歩み、よき師よき友から教えをいただく歩みで私たちが気づかされることは、仏さんってすごいな、とまさに私たちを超えた存在だ(仏>>……>>私)としか思えないじゃないか、という思いが出てくるのです。この大きいとか少ないとかは量的な表現です。圧倒的に大きいということは、先ほど質を異にしているということでもあるのです。すなわち一次元と二次元というのは質がちがっているわけです。一次元はいくらその延長線上でずっと伸ばしていっても二次元にはなれないのです。だからここの質の違いを私たちにわかりやすく表現するために量的に表現すると(仏>>……>>私)こうなるわけです。
仏教の五劫の思惟といってものすごい長さ期間の思惟をされたとか、お浄土というのは西方の十万億仏土の先にあるんだと量的な表現で非常に大きな表現になるのです。あれは私たち分別にわかりやすくいっているわけです。質でいったら薄皮が一つちょっと違うだけかもしれない。でも薄皮もちょっとちがうようだけれども、薄皮があるというところがまさに質が違っているわけです。それは超えられないわけです。
(17)なぜ南無阿弥陀仏なのですか
それを超えられないことを無量とかいろんな量的な表現で言われているのだと思うわけです。質を異にしているのだけど、それを量的に表わすとするならば、無量・五劫・十万億仏土などの表現にならざるを得ないのです。どうしたら私たちは分別の世界を超えた仏さんの世界を受け取れるか。私たちの分別でこれを受けとれるかどうかです。
法然上人は、人間が救われる道が、「なぜ南無阿弥陀仏なのですか」と聞かれたときに、その質問に対して、三つ答えています。なぜ南無阿弥陀仏なのかに対して、(1)仏意はかりがたし。仏さんのお心は大きすぎて私たち人間には理解できない。こう言っているわけです。なぜ南無阿弥陀仏を選んだかは私にはわからないのだと。仏さんの心はわからない。なぜ念仏なのかにたいして二番目は、(2)念仏は簡単である。簡単であるというのは誰でも口が動けば南無阿弥陀仏とお念仏できるじゃないですか。体が動かなくても寝たきりになっても南無阿弥陀仏とお念仏できるじゃないですかと、簡単です。そして三番目は、(3)南無阿弥陀仏には功徳が満ち満ちている。無量光、無量壽、智慧と慈悲の仏さんのその修行の成果がこめられて智慧を届けたい。命を届けたいという形で「南無阿弥陀仏」となっている。念仏は功徳が満ち満ちているというのです。この三つを法然さんは、なぜ念仏なのかという質問に対して、この三つを示されたわけです。(つづく) |