2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2554)

「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演、2011.1. より)前回よりの続き(第7回)

(17)なぜ南無阿弥陀仏なのですか
 法然さんは、なぜ念仏なのかという質問に対して、(1)仏意はかりがたし、(2)念仏は簡単である、(3)南無阿弥陀仏には功徳が満ち満ちている、この三つを示されたわけです。
 法然上人はこれで私は納得できたと言われたのです。しかし、私たちはこの三つが自分にとって納得できる条件かどうかです。私たちはわかるものを積み重ねてきて人生を生きてきたわけですから、できるだけわかるものを根拠にしたいという思いがあります。だから、「仏意はかりがたし」というのは根拠にするには、全くたよりになりません。たよりにならないでしょう。はかりがたし、わからんと言っているわけですから、私たちのたよりになりません。次に「簡単である」と、これもやっぱり私たちとしてはたよりにならないわけです。三番目の、「功徳が満ち満ちている」というのも、ああそうかな、というくらいにしかならない。私たちにとってはこの三つの条件はたよりにならないわけです。しかし、法然上人はこれで十分だといったわけです。それはどうしてだろうかということです。

(18)分別を超えた世界、智慧
 これは仏さんの光(無量光)に照らされて、仏教の教えによって、仏さんの教えに照らされて、「私の姿」がはっきりしたということです。はっきりしたというよりは、光によって私の内面までが照らし破られたということです。私たちは分別というものを拠り所として仏法の学びをしていきます。仏法って「どうして、どうして、どうなっているのかな」ということを頭の中に構築しながら理解し、学んでいくわけです。そうしたらその分別を超えたところというと、なかなか理解が難しいわけです。
 それで少しヒントみたいなものを紹介します。最近、私の所に北海道の木口さんという方から、聞いてみたら同朋新聞に数ヶ月前に紹介されていた方で、その方からDVDを送っていただいたわけです。その方が、暁烏敏(あけがらすはや)先生のお弟子の林暁宇(ハヤシギョウ)さんの講演とか講義をしているDVDがたくさんありますから、その中に田畑先生のことがちょっと出ていますからどうぞと、数枚送ってきてくれたわけです。そのDVDを見ていたら、その講話の内容に次のような話がありました。明治時代に念仏の人を多く育てた近角常観(チカズミジョウカン)という先生がいらっしゃいました。この近角先生はいつも同じ話をされていたそうです。近角先生はアインシュタインが日本に来たときに、「仏教とはどんなお教えか」という質問に対して、姨捨山の話をしたというのはどこかで聞いた記憶が私にはありました。そしたらお話の中で林暁宇さんが、やっぱりその近角常観先生はいつも姨捨山の話をしていたと言われていました。同じ話をいつもされていたというのです。今、私たちは姨捨山の話は何かといったら、食料生産が限られていた時代に食い扶持を減らすために年老いたお年寄りを捨てるという物語ですよ。息子が老いたお母さんを背負って山の中に捨てに行こうとして山奥に向かって進んで行っているとき、背負った親が時々、小枝を折っていることに気がついたのです。しばらく歩きながら考えていたら、ふと、息子は年老いた親が、小枝を置いて来て、その小枝を頼りに、また帰って戻ろうという魂胆ではないかと疑い出したのです。そこで老いたお母さんを問い詰めたのです。「お母さん小枝を頼りに帰ってこようと思っているのではないの!」と。こう言ったらそのお母さんが、「いや、私は帰ろうと思ってない。わしは帰らんのじゃけど、お前が戻っていく時に道に迷わんように、木の枝を置いてきたんだ………」と。
 その親の心が仏さんの心です。それが阿弥陀仏の本願ですよ、という話をいつもされていたのだそうです。多くの人たちはたぶんこの話は知っている。私はもう一回聞いた、という反応を示されることもあったそうです。そしたら林暁宇さんは、ここで、「いつまでこの同じ話を聞いたら善いと思いますか」、と言われて。「これはねえ、初めて聞いたと感動するまで聞きなさい」と、こう言われていました。私たちは分別では、こうしてこうなんだとわかるわけです。だけども本当に自分が分別を超えた世界を感得するというのはまさに、「驚き」、「びっくり」、「感動」、「えっ」という身体全体で感得することだと思うわけです。

(19)「驚き」、「びっくり」、「感動」、「えっ」
 普通、理知の勝さっている人は、ある先生の話を何回か聞くと、だいたい同じ筋書きのところもあり、ときどき同じ喩えが出てきたりすると、ああもうこの話を私は知っている。聞かなくてもいいとなりがちになるのです。だけども、たとえの話として似ているかもしれないけれど、状況からいったらまったく違うのです。だから、同じたとえ話でも、そのことを聞きながら、「えっ!そうだったの、はじめて聞いた」という感動があるということが本当に自分の身を通してうなずけたということになるのだという意味です。だからこの分別を超えた世界、2次元の世界へは、一次元の延長線上では行きつけないのです。どうしたら二次元(プラス智慧の次元の意味)がわかるかというと、驚き、感動、びっくり、ということを通して、私たちはそういう世界に触れていくのですとこういうわけです。
 お話を聞きながらいつも感動、びっくり、驚きがあるわけではありませんけども、時々、ああ今まで聞いていたけれど、こういうことだったのか、あらためて驚くことがあります。
 私はいろんな人の講義・講話の記録のテープやCD,MDをいただくことがよくあります。それを車の中で運転しながら、ちょっと時間があれば、何回も繰り返して聞いております。繰り返し聞いていると、ああ今まで聞いていたのに聞こえてなかったなとか、こんなことまで言っていたのか、というふうな思いが出てくることがしばしばあります。
 私たちは一回だけさらっと聞いたのでは、自分が理解できるところしかわからないのです。自分の受け取る心の深さでしか、相手の話しの深さは測れないのです。今、九州新幹線で、鹿児島中央に向かう途中に案内が放送されます。最初に日本語で言って、あと韓国語と中国語と英語で言うのです。英語はなんとなくわかるかなと思うのですけれど。韓国語とか中国語は私にはわかりません。だけどわかるところがあるわけです。新水俣とか鹿児島中央とかいう地名はわかるわけです。どういうことかといったら、自分のわかるとこしかわからないということです。わからないところはわからないわけです。だから私たちの分別というのは、分別を超えた世界の理解というのは無理なのです。だから分別を超えた世界というのは、まさに驚きとか、びっくりとか感動ということを通して、じわじわ、じわっとしみこんでくるのではないでしょうか。それを全部、分別でわかっていこうと、そういう努力をしますけども、それを超えるというのは困難です。お話する人の人格性を通しながら、驚きだ、びっくりだ、感動だ、ということを通して少しずつ少しずつ、うなずいていけるのかなと思っています。(続く)

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