4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2554)

「念仏はなぜ難信なのか」(在家仏教講演、2011.1. より)前回よりの続き(最終回)

(22)すべての人に可能な救い
 お釈迦さんみたいに出家して修行のできる人はいいですよ。まさに宗教的エリートの人たちがそういうふう仏道を進まれることは問題ないでしょうが………。お釈迦さんの在世の時代じゃなくて、まさに末法というか世俗で生きる私たちが在家として生きていこうとするならば、我々がまさに家庭をもつということは私たちの欲を認めた生活なのです。ということは煩悩まみれの生活をしているわけです。その私が本当に救われるというのは煩悩なくして救われるのではなくて、まさに煩悩の身で自分の煩悩性に気づいて、煩悩まみれの凡夫をも救わんがための浄土の教えであったのです。かたじけなくも南無阿弥陀仏があってよかったといって、そのお念仏で救われていく道を歩ませていくのです。
 康先生は韓国に帰られて、お念仏という雰囲気がなかなかない中でそのお念仏をいただくグループをつくっています、とおっしゃっていました。そこにすべての私たち世俗で生きる者が救われる教えが浄土の教え、お念仏の中にあるのだなということを思わしていただいたのです。

(23)仏意はかりがたし
 それにはやはり仏の光によって照らされる。そして自分自身の姿がはっきりした。そして照らし破られて、本当に自分の煩悩性で“すくわれがたい私”いや“救われるはずのない私”ということへの気付きのところにお念仏が届いてくるのでした。その極まった場において「仏意はかりがたし」「簡単である」「功徳が満ち満ちている」という法然上人のこの三つの条件で私もいい、十分に納得できる条件だと受け取ることができるようになったのです。
 私たちは分別から言ったら、「仏意はかりがたし」、こんなもの頼りになりませんよ。「簡単」、これも頼りになりません。「功徳が満ち満ちている」と、そんなものかなあー、ぐらいでしょう。それらを頼りとする根拠にして念仏して生きていくということはできないわけです。だけど、よき師よき友を通して私が自分の現実の姿を智慧によって照らされ、知らされる歩みにおいて、法然上人のお念仏に対する、受け取りの心がうなずけるようになり、お念仏の心が受け取れていくわけです。この自分の姿が照らされるということの難しさと、照らし出された私の姿を、「これが私の現実、南無阿弥陀仏」と受け取るのが、なかなか難しいから、難信なのです。

(24)考える人間になる
 自分の分別に自信があったり、自分はわかっている。世の中のことは裏も表も知っているぞと自負するものは、種々の事柄に直面した時に、それを深く考えない傾向があります。これ以上考えないとどうなるかというと、物事を判定する、レッテルを貼る、優劣を判断する………などになりやすいでしょう。
 考えるということが人間を人間たらしめているのです。考えなくなると仏教で言う“地獄、餓鬼、畜生”におちていくのです。だからそこに「考える」ということが大切になるのです。「この現実は私に何を教えようとしているのか」「私にとってどういう意味があるのか」などと考えることが人間として貴重であり、そのことが私たちを人間たらしめるわけです。だからずっと考えていくことが大事なのです。考えないようになると地獄、餓鬼、畜生の三悪道におちていくという可能性があるのです。知っているから考えないのです。
 仏さんの大きさ・深さに驚くものは、「仏意はかりがたし」といって、さらに仏さんの心をたずねていきたい、そのことはどういう意味なのだろうか、といって常に私たちはお念仏を通してそういう仏の世界に導かれていくわけです。

(25)お念仏の功徳、「憶念、念持、不忘」
 お念仏の功徳を、憶念、念持、不忘と聞いています。だから、お念仏の功徳の「憶念」するとは、念仏すると必ず・・仏さんの言葉を思ったり、仏教の言葉を思ったり、よき師のことを思ったり、よき友のことを思ったりします。そして「念持」というのはそういう思い、念が持続する、とこういいます。そして「不忘」、忘れないのです。念仏すれば必ずそういう世界に連れ戻してくれる。南無阿弥陀仏とお念仏すれば必ず憶念、念持、不忘という言葉の如くにはたらきが展開するのです。 念仏の功徳として私たちにそなわってくると教えていただいております。

(26)分別を超えた世界だから難信
 なぜ南無阿弥陀仏の念仏が難信なのかというのはひとえに自分の姿がはっきりせずに、いつのまにか私はわかってる、知識があると自負する中であれがいいあれが悪い、あれはなんとかだと、レッテル貼ったり、優劣で判定だけをするという安易なところに流れていきます。私たちは経験してきたこと、世俗のことは知っているということの愚かさに気づかない。
 だけど世俗を超えた仏さんの智慧の世界というのは、私たちの次元を超えているとしかいいようがないです。だけどその世界を知らされることを通しながら、私たちの現実生活のありさまが、よりはっきりしてくるわけです。そのことを通しながら、「世間虚仮、唯仏是真」という聖徳太子の言葉も私たちが、「煩悩具足の凡夫、かたく無常の世界はよろずのこと、そらごと、たわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」というそういう世界をも私たちはお念仏をとおして、知らされることがあるのではないかなと。それは私たちの分別の延長線上には決してない。だから分別でずっと生き通していこうとするならば、必ず壁にぶつかって、老・病・死の前に「なんで!」といって私たちは愚痴を言ってしまうわけです。
 そういうのを仏はちゃんと見通して、なんとかその者に智慧を届けたい。命を届けたいと願って、南無阿弥陀仏となる浄土の教えがお釈迦さんから阿難に対して説かれていたのです。仏説無量寿経、観無量寿経の中で、お念仏がすでに説かれていた、ということは本当に私たちにとってはこのお念仏に出会うということは本当にあること難しという世界なのだなということを思わせていただきます。

(27)本物ははやりません
 しかし、現実の世界を見てみますと、たぶん日本人で仏教を本当に生きるよりどころにしている人は1パーセントいないのではないかと思います。西日本でいったら、家の宗教でいうと、浄土宗・浄土真宗が5割とか6割くらいありますけども、本当にお念仏ということをいただく人は人口の1パーセントおるだろうかな、という思いがいたします。しかし、安田理深という方がこうおっしゃっています。「本物ははやりません」と。「『本物がはやりだしたら、ちょっとおかしい』と思わんといかんですよ」とこう言っています。それぐらい本物というのはなかなかわかりづらいわけでしょう。

 今日は仏教はなぜ難信かという講題でお話させていただきました。

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