5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)

 最近、終末期の医療の課題を取り上げた本や文章が関係者の注目をあびています。(1)石飛幸三 『平穏死のすすめ』 講談社、2010年 。(2)中村 仁一 『大往生したけりゃ医療とかかわるな』 幻冬舎新書、2012年。(3)金丸 仁 (藤枝市立総合病院) 「老衰死」 『ドクターマガジン』、No.148、p1、2012年2月号。(4)今中孝信 『健康に生き、健康に病み、健康に死ぬ』 天理教道友社 2001年。 これらが私の読んだものです。
 また、この4月東北大学に臨床宗教師を育てるための3年限定の寄附講座が始まったと報じられています。国立大学にです。上記の文献とあわせて現代医療のこれまでのあり方に一石を投ずるものになることが期待されています。私の3年前から関わっている、龍谷大学、大学院、実践真宗学研究科(宗教実践・社会実践)の意図とも軌を一にするものと思われます。
 上記の文献に共通のことは、経験豊富な医師の発言ということができます。医療全体を俯瞰的に見通すには豊富な経験はなくてはならないものと思われます。なおかつ、それなりに信頼される医療を実施してきたという実績と評価をされている方々であります。そして高齢者の最後の時期の医療・福祉にも関わりをもたられているということであります。
 それらの中で私が注目するのは「人間の死」に関係することです。死ということは誰も未経験のために『死にまつわる不安』を抱えている人が多いと思われます。死を見ないようにしたり、忘れることで逃げていることが多いのですが、「死の不安」の問題が解決しておけば、日々の生活、生きることの安心が得られると思われます。生きることの安心のために、「死」を考えて、死を超える仏教の智慧による教化を受けることを願わずにはおれません。
 私自身も日々の病院での入院患者さんや外来患者との対応の中で感じていることと、それらの著者の視点と共通点があると思います。高齢者 《 およそ80歳以上を想定している 》 の方々で自分で食べたり、飲んだりできなくなってからの対応をどうするかということです。私はまず食べたり飲んだりできない原因を病歴及び診察所見より判断して、病気の可能性があれば、検査・診断・治療へと進めます。老化現象の部分症状と判断される場合は末梢よりの静脈注射をして、回復の可能性をしばらく看守ります。回復が見込めなくなれば、自然の経過に任せることを原則としています。
 私の勤める療養型病棟では意識障害もある人が多いためか、看守りで自然と穏やかに最後を迎えることがほとんどです ( 私、及び病院のスタッフが見る限り )。患者の宗教の信仰の有無には関係ないように思われます 《 当院に入院してくるとき、すでに寝たきり状態になっている人がほとんどのため。また入院してきて,患者の宗教性を表白されることは極めてまれな医療現場という事情もあります 》。
 宗教は 「 死 」 を課題としますが、それは死への対応のためにではありません。「 生きること 」を問題とするからです。仏教は生きた人間に対応する教えです。医療現場では 「 生きてきたように、死んでいく 」 といわれているように、「 死に様を問題とするよりは、生き様が大切 」 というのが仏教です。
 上記文献の中で、石飛医師は医療現場にいる間は老衰死、自然死を診たことがなかったと言われています。そして福祉の領域で超高齢者をお世話するようになってから、自然死・老衰死が穏やかな死であることにはじめて気づいたといわれています。
 金丸医師は、老衰で穏やかに死んでいく人たちを、救命。延命治療をすることで、穏やかに最後を迎えようとしているのに、肺炎や多臓器不全という、患者を苦しめて死を迎えさせている医療現場の実態を書かれています。そして医師はもう少し患者のために良かれという対応を考えるべきである、と提言されています。
 「 死が苦しい 」というイメージは、確かに、肺炎等の肺疾患では ( 結核が国民病で死因の第一位を占めていた昭和10年から25年頃まで) 、呼吸苦による末期の症状があったと聞いていた時代から、救命・延命優先の治療の流れで受け継がれてきた現代医療が作った臨終の姿かも知れないと思われるのです。確かに急性期の医療では、病気の病態によっては、呼吸苦、疼痛苦、倦怠苦などを症状 ( 医療で症状の緩和がかなり可能になった ) とすることはありますが、80歳を超えての加齢現象、種々の疾病との合併症、老化による寝たきりの患者は見た目にも苦悶状態を示すことはほとんどありません。
 病状が回復可能か終末期の症状かの 「 見分けが難しいのではないか 」 という意見が医療関係者の中からでも出てきますが、金丸医師は医師としての経験が豊富になれば、その見分けは多くの場合にできるはずだと書かれています。医療界も日本呼吸器病学会から医療・介護関連肺炎(NHCAP)診療ガイドラインが提言されて特に介護施設に入所している人の肺炎は一度起こすと肺炎を繰り返すことが多く、最終的には肺炎で亡くなるために、どこまで肺炎の治療を繰り返すかに関して、 「 肺炎は老人の友 」 というアメリカの医療界の言葉を引用して、積極的な治療は総合的な関係者の判断でなされるべきであると、軌道修正をしています。
 終末期の医療は医療費との絡みがあり、今のような濃厚な救命・延命治療は多額の医療費を要するために、それを縮小しようとする方向になる意見は、医療界の「 いのちの尊厳 」という建前の意見に少数意見として陰が薄くなりがちです。医療界の良識と国民の声が節度のある終末期医療の展開になることを期待するしかありません。それは国民の生きることの安心へとつながると思われます。
 安心は外の条件をいくら満たそうとする取り組みをしてきりがないのです、百点を目指せば、不足のところを探す分別の目がきりなく追い求めることになるからです。安心は主観の方、私の思いが大事になります。私が現実をどう受容するかではないでしょうか。
 津波対策で私の地域は瀬戸内海で太平洋からの津波は四国 ( 佐多岬半島など ) と大分県 ( 佐賀関半島など ) で一度ブロックされ、国東半島で又ブロックされるために津波の予測される高さは最大5メートルでしょうか、私の家は海から1キロぐらいの距離ですが。家の前の県道(中津ー高田線)の地面が海抜4メートルと最近表示されました。何百年に一度ぐらいの津波対策で種々の対策を考えなければならないでしょうが、津波が来たときにはそれなりに対応して、それば無理ならば、南無阿弥陀仏、とその現実を受け取ることに尽きるのではないでしょうか。その心が安心です。
 私が安心できる終末期は、(1)世俗のことは、関係者にお任せです。そして(2)生命のことは、仏さんにお任せで、全て安心です。その安心の心を感得しつつ、日々生かされていることで果たすことが願われている 「 私の役割・仕事・使命 」 を、念仏して果たして生きるにつきると頂きます。

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