6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)

 昭和10年,それまで死因別死亡率の第1位であった肺炎・気管支炎にかわって結核が第1位となった。そして昭和25年まで,結核は日本人の死亡原因の第1位であった。 農村から都会に出てきた労働者は,長時間労働,低賃金,低栄養という過酷な条件下で,次々に結核に罹患していった。特に紡績工場で働く女子労働者は,「女工哀史」から想像できるように劣悪な労働条件で働いて、当時の日本の主たる産業は繊維工業で女子労働者40万人が繊維工場で働いていた。女子労働者の年齢層は15から19歳であり、女工の繊維工場における過酷な労働条件は結核という形で若き命を奪っていった。彼女たちはタコ部屋のような寮に入れられ,この全寮制が結核を蔓延させる温床となったという。
 結核がヒトからヒトへ感染するのは,患者の咳やくしゃみなどによる飛泡感染が原因であり、そのため不衛生の環境で集団生活を強いられた労働者の間では,結核は容易に感染していった。しかも健康管理の概念の乏しかった当時は,結核の症状が進行し喀血の症状を呈するまで労働者は働かされていた。そしていったん結核が進行して働けなくなると,青白い顔をした労働者は職場から農村に追い帰された。このため結核は農村にも持ち込まれ,日本中で流行することになった。患者の多くが青年期の若者であることが,結核という疾患をより悲劇的なものにした。さらにヒトからヒトへ感染する伝染病であることが周囲の偏見と差別をよび,青白い顔をした青年たちは洗面器に鮮血を吐き孤独の中で死んでいった。
 明治以降の急速な近代社会が,結核を蔓延させたのだった.結核に対する本格的な対策がとられようになったのは,農村も含め多くの若い男子が結核に冒され,徴兵不合格者が増えてきたからである。
 当時の人たちが結核を特に恐れていたのは適切な治療法がなかったからである.新鮮な空気を吸うことと,日光浴が良いとされ,サナトリウムが各地に建設された.患者はサナトリウムのベッドのうえで長い時間を過ごしたが,治療の効果はほとんどなかったという。
 戦争が長引くにつれ,国民の栄養状態の悪化がさらに結核を蔓延させた.また結核の罹患率の増加に加え死亡率も高まっていき、終戦後の昭和22年の統計によると,結核による死亡者数は年間14万6000人に達していた。この数は,日露戦争による戦死者が12万人であったことを考えると,いかに多くの人たちが結核で亡くなったかが想像できる。まさに結核は「亡国病,国民病」であったのである。
 終戦時,日本を襲った食糧難の時代に,体力のない結核患者が食糧を確保することはさらに困難であった。結核療養所の患者たちは配給が少ない上に,療養所の職員による配給食糧の横流しが横行し,満足な栄養を確保することはできなかったという。このような状況の中で,療養所の患者たちが「日本患者同盟」を組織して抗議する事態にまで至っている。全国規模の結核患者が結束して行政に抗議するという世界でもまれな組織ができたのである。結核の治療として栄養の補給が一番であったが,その食糧が不足していた。このような時代に,結核療養所の患者が結束して抗議行動をおこなった。しかし、結核療養所に入所していた患者はまだ恵まれていた。結核療養所に入所できた結核患者は全体のわずか5%で,残り95%の患者は自宅で療養していたのである。自宅で療養を強いられた結核患者は何らの保護も受けられず,栄養失調により症状を悪化させていったようである。
 ちょうど現在の人たちがガンを恐れているように,当時の人たちは結核を恐れていて、結核に取りつかれることは死を意味していた。当時の医師は,結核患者に対し肺浸潤,肋膜炎,肺尖カタル,カリエスなどの病名を告げることがあった。これらの病名はすべて結核と同じ意味の言葉であるが,結核そのものが伝染性疾患,不治の病という暗いイメージを持っていたことから,医師は結核という直接的な病名を避けていたのである。ちょうどつい最近まで医師たちがガンと言わず腫瘍と告げていたのと似ている。
 呼吸器系の疾患は呼吸機能を司る肺臓が傷ついていき、呼吸で酸素を取り入れる肺臓の、機能する容量が減るために呼吸苦になることが多い。呼吸苦は患者自体も苦悶状の表情を示し、よそから見た目にも苦しそうであり、死苦を想像させるものである。
 近年緩和ケアの進展で、悪性腫瘍の肉体的な痛みにたいして9割近くが鎮痛対応可能であり、多くの患者に恩恵をもたらしている。しかし、呼吸苦や倦怠感等はなかなか現代医療も対応に苦慮している。最終的には鎮静剤の使用を避けることは出来ないようである。
 正岡子規は結核に罹患して結核があちこちに病巣をつくり、種々の痛みに苦しめられたようである。死を前にして思索を深められていったようで、明治35年6月2日の日記には次のような記載がある。
 「病床六尺」より。 「余は今迄禅宗の所謂悟りといふ事を誤解していた。悟りという事は、如何なる場合にも平気で死ぬる事かと思って居たのは間違ひで、悟りという事は、如何なる場合にも平気で生きて居る事であった。
 今朝起きると一封の手紙を受け取つた。それは本郷の某氏【真宗大谷派僧侶、清沢満之と思われる】より来たので余は知らぬ人である。その手紙は大略左の通りである。
 拝啓昨日貴君の「病牀六尺」を読み感ずる所あり左の数言を呈し候
 第一、かかる場合には天帝または如来とともにあることを信じて安んずべし
 第二、もし右信ずること能はずとならば人力の及ばざるところをさとりてただ現状に安んぜよ現状の進行に任ぜよ痛みをして痛ましめよ大化のなすがままに任ぜよ天地万物我が前に出没隠現するに任ぜよ
 第三、もし右二者共に能はずとならば号泣せよ煩悶せよ困頓せよ而して死に到らむの 小生はかつて瀕死の境にあり肉体の煩悶困頓を免れざりしも右第二の工夫によりて精神の安静を得たりこれ小生の宗教的救済なりき知らず貴君の苦痛を救済し得るや否を敢えて問ふ

 病間あらば乞ふ一考あれ

 この親切なるかつ明ちょう平易なる手紙は甚だ余の心を獲たものであって、余の考も殆どこの手紙の中に尽きて居る。ただ余にあっては精神の煩悶といふのも、生死出離の大問題ではない、病気が身体を衰弱せしめたためであるか、脊髄系を侵されて居るためであるか、とにかく生理的に精神の煩悶を来すのであって、苦しい時には、何とも彼とも致しやうのないわけである。しかし生理的に煩悶するとても、その煩悶を免れる手段は固より「現状の進行に任せる」よりほかはないのである。号叫し煩悶して死に至るよりほかに仕方のないのである。
 結核が減少して高齢社会になっている日本で、長寿を実現できた人達が自然死・老衰死で穏やかに亡くなるところを現代医療は救命・延命のコースに乗せて、肺炎や多臓器不全となり患者を苦しめることになっている、とある医師の発言でいろいろ考えさせられた。

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