7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)
時間を考える(第一回)
現代医学の準拠する時は時計で計る時間(クロノス時間、量的時間)です。同じように普段の日常生活もカレンダーに沿っていろいろ予定を立てて、その予定をこなしていきます。人間の歴史は同様な時間で経時的に事象をならべて表現しています。さらに地球規模で考えると宇宙の誕生が約137億年前、地球誕生が約46億年前、生物の誕生が約38億年前などと学者が言われています。それらは気が遠くなるような時間です。
「地球から131億2千万光年の位置に銀河が発見され、現在確認されている中で地球から最も遠い天体であることが確認された。 これは原始の銀河で、チリにあるヨーロッパ南天天文台(ESO)の超大型望遠鏡VLTによって、この銀河が放つ微弱な赤外線が観測された。遠く離れた銀河の光が地球に到達するまでの時間から、今回観測された赤外線は、宇宙誕生後わずか6億年後に放出されたと考えられる。」 (National Geographic News、October 21, 2010 )
上のニュースに見られる時間は向こう側に眺めるように観察して見えてきたものです。見る自分と見られる現象はほとんど無関係のように見られています。これを対象化と言います。そこでは過去・現在(今、今日)・未来は連続しています。でもそれは頭でイメージした直線的な時間です。そんな時間を我われは直接肉眼で見ることはできないのです。
仏教の時間は自分の実感を大事にしているように思われます。「今」、「今日」しかない、ということです。明日になったら、明日の「今」になります。過去の時はすでに過ぎ去って、過去であり、「今」ではありません。上記のクロノス時間を切断した時(カイロス時間)です。記念すべき時とか感動の時というような時です。カイロス時間はその一瞬一瞬が区切られており、一刻一刻が完結した時ということができます。
完結ということを理解する上で、次のようなことがあります。生物学でマルコフ連鎖と呼ばれる複雑系科学の基本概念があります。それはある状態から次の状態へ移行するとき、移行のルールだけが決まっていて、同じプロセスが何度も繰り返されていく過程をマルコフ連鎖と呼ばれているのです。生体(人間を含む)とは、ある自己形成の結果出来上がった環境の中で新しい自己形成の法則がDNAから読み取られ、新しい自己形成が始まり、その自己形成が終わるとまたその結果を環境とする次の自己形成の法則がDNAから読み取られて、次なる自己形成が開始される………というように、小さなマルコフ連鎖が順々に繰り返されて作られる大きなマルコフ連鎖の結果生まれてくる、いわば複合的な自己形成過程の産物が人間であるとされています。まさにそれは縁起の理法そのものの説明と言ってよいようです。 DNAの遺伝情報(部品のカタログ集や法則のルールブックみたいなものと考えると良い)がすべて解読されたからとして、複雑系のヒトは千変万化で、諸行無常で絶えず変化している存在ですから、人間という存在全体の理解はできないだろうといわれています。
縁起の法では、固定した確かな「私(我)」という命はない。絶えず変化する私の存在は「無我」ということを示しています。そして縁起の法では、ガンジス河の砂の数の因や縁が仮に和合して、私という現象が今、ここに存在している。そして、一刹那ごとに生滅を繰り返している、そして一刹那ごとに生命現象は完結して、生滅を繰り返しているということです。生物の生命現象は複雑系といわれるがごとく人間のいのちは無数の要因の関係した動的現象としての生命であり、生物学的知見と縁起の法と整合性のあることにびっくりします。
日常生活でのクロノス時間を生きている世俗の私の意識は、機械的な流れの時間を生きる時は、「今」という時を受け取るのが難しいのです。今、直面している現実が解決の難しい課題や悩ましい状況の時は、「今」という時から逃げ出したくなります。時には現実が私を傷つけます。それで未来の解決の時が早く来ないかなと期待します。
一方、「今」が満たされて幸福を感じている時、その至福の時が早く過ぎたり逃げ去ることを惜しみ、今の時が続いて欲しいと願います。どっちの場合であっても、「今」という時は悩ましい受け取りになります。
仏教の智慧(ちえ)で、そのクロノス時間・量的時間の中の「今」を感じている心の内面を見透かすと、不足・不満・欠乏や、はかない仮の充足、壊れやすい満足の状態であると指摘することができます。そして、心底からの満足の世界を感得できていないのです。「はらだたし 我がしあわせを いつも明日が 預かりており」という歌を見たことがあります。
今に不足・欠乏・不満な者は、未来に充足、満足を感じる状態になることを期待して、明るい未来を目指して生きていかざるをえないのです。そうすると結果として未来が目的の時(知足を感じるであろう時)で、今は未来のための準備期間のような今になります。今(今日)が目的ではなく、手段・方法・道具の位置にあるような受け取りになると、その1日は終わってしまうと空過(あっという間に過ぎ去った、空しい)ということを免れることができません。未来の幸せを目指して『明日こそ幸せになるぞ』『明日こそ…』と死ぬまで幸せになる準備ばかりで時間が経過するのです。そうすると、量的時間で長生きしても虚(むな)しい人生になるのでしょう。
フランスのノーベル賞作家のアナトール・フランス(1844-1914)の随想録である『エピクロスの園』の中に「人と精」という話があります。妖精が少年にある特殊な糸毬(まり)を渡す。その糸毬を引く早さによって、時間のスピードが調整できるのだ。すると、少年は、上手に時間経過を使い分けようとする。
ある精が一人の子供に一つの糸毬(いとまり)を与えていう。
「この糸はおまえの一生の日々の糸だ。 これを取るがよい。 時間がおまえのために流れてほしいと思う時には、糸を引っぱるのだ。 糸毬を早く繰(く)るか永くかかって繰るかによって、おまえの一生の日々は急速にも緩慢にも過ぎてゆくだろう。 糸に手を触れない限りは、お前は生涯の同じ時刻にとどまっているだろう。」
子供はその糸を取った。 そしてまず、大人になるために、それから愛する婚約者と結婚するために、それから子供たちが大きくなるのを見たり、職や利得や名誉を手に入れたり、心配事から早く解放されたり、悲しみや、年齢とともにやって来た病気を避けたりするために、そして最後に、かなしいかな、厄介な老年に止めを刺すために、糸を引っぱった。 その結果は・・・。
子供は精の訪れを受けて以来、四か月と六日しか生きていなかったという 。 (大塚幸男訳、岩波文庫)
仏教の考える時間は切断された感動の質的な時です。「歎異抄」(親鸞の弟子の唯円の著作)の第一章に、仏の心に触れて「念仏申さんと思い立つ心の起こる時、摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」と表現されているところがあります。念仏の心に触れて「仏の教えの如く生きていこう」となる具体的な姿が「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」なのです。 それは今、無量寿(永遠)を生きることのなるのです。 |