8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)

時間を考える(第二回)

 念仏とは、口で仏の名を称える念仏です。諸仏の念仏をほめ讃える声を聞く時、仏の心に触れ、自分の愚かさ、小賢しさ、迷いの深さが自覚され、自然と頭が下がり(合掌の姿)、愚かな分別を翻して仏の教えに従って生きていこうとなります。その「念仏」する自分の勇気・意欲の表白が、まさに「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」なのです。
法話を聞く歩みを継続する中で、仏の心を感得する時、「今」という時の質的充実、充足に導かれるでしょう。その一刹那、瞬間の足し算(すなわち、「今」+「今」…というように足し算する)が結果としてクロノス時間(一か月,一年など)になるように受け取れていくのです。その「今」はひとつひとつが区切られていて完結しているのです。
 「今、今日しかない」という仏教の智慧で見る視点は、連続したクロノス時間を区切ることの大切さを教えてくれるものであります。日常生活では毎日の生活行動の80-90%は昨日と同じようなことをしているという。そうすると我々は同じモノの繰り返しと言って、マンネリ化に陥りがちであります。区切りをつけることで一日、一日の存在の一回性を際立たせることが貴重なのです。同時に一日一日の完結性を受け取ることが大切になるのです。一回性でこの機会しかないという時間であれば、大切にしようという気持ちも起こってきます。同時に完結性を感じることができるようになれば、明日はない、今日の一日で終わってしまう、この機会は繰り返されることはない。そういう一日になると、全身の注意をその一日に注ぐ取り組みに導かれるのです。
 仏教の智慧で教えられる、一回性、完結性の受け取りの大事さは、人間という生物を考える時に、より理にかなった受け取りになるのでしょう。
 工業製品の多くは部品を組み合わせて製品を作っていきます。例えば、腕時計を使っていて、動かなくなったとします。電池が無くなった、というような異常は私でも分かりますので、入れ替えをします。しかし、それでも動かなければ時計屋さんに持って行き、調べてもらいます。専門家が故障の原因を見つけてくれます。その調子の悪い部品を取り換えることになるでしょう。その時、そのお店に部品がないとなると、取り寄せることになります。そのうち部品が来て修理をしてくれて、また動き出すことがほとんどでしょう。部品が来るまでに一週間、一カ月、場合によれば数カ月を要するか分かりません。でも時間がいくらかかっても、部品が来たところで、故障した時計は再び動き始めるのです。そういう意味ではそういう工業製品は部品が来るのにどんなに時間がかかっても、部品さえくれば再び動き出すでしょう。そういう意味では同じことの繰り返しはできるし、何時でもいわば再生できるので時間という要素は関係ないのです。時計にとってその時、その時の完結性はほぼないということができます。
 人間の場合は違います。妊娠初期の女性に医師が薬剤を処方する場合には特に気をつけなければなりません。薬剤が胎児に大きな影響を与える時期があるのです。ある時期を過ぎると処方するのに過度に神経質に注意しなくても良いようになります。また外傷で出血して出血多量の患者で、どうしても輸血をしなければ全身状態をよい状態に保てない時は輸血が必要になります。その時、日赤(日本での血液製剤を扱っているセンター)に電話して、O型の濃厚赤血球を10単位、注文するとします。その時、日赤が「先生、最近は暑くて献血をする人は少なくて、今日は無理です。来週の月曜であれば揃えて持って行くことができます、いかがでしょうか」というような事態が起こると、その患者を救命することは難しいということも起こるでしょう。その時、その時に必要な治療処置、配慮をしなければならず、工業製品の部品見みたいな対応では、生物・人間の生命は救えません。これはその時その時の完結性を示していると思います。
 セーレン・オービエ・キェルケゴール(1813- 1855)は、デンマークの哲学者である。一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている方が「時間性のアトム」、「永遠性のアトム」ということを言われていると教えられました。 「不安の概念」の時間論でキェルケゴールは、瞬間を通じてのみ永遠を垣間見るしかできない哀れな存在として、人間を示されています。キェルケゴールの関心は、不安が有限性という人間の原罪を開示することにあったと言われています。アトムとは切断されるもの(時間)の最少単位を示します。ギリシャのカイロス(切断された時)と通じるもので、仏教では一刹那と同じ概念と思われます。その「永遠性のアトム」と表現されているのが「永遠の今」であり、今、永遠性と通じる、永遠(仏教では無量寿)を垣間見る時でもあると言えます。
 秋の晴天の日、九州の九重高原の草原で空を向いて寝そべって青空を見上げる時、圧倒的な広い自然の中でちっぽけな自分に気づきます。同時に自分の存在が自然の中で許されてあり、包まれている感覚のような……、世俗社会の人間関係の中で煩わされている小さい存在の私が、非日常の大きな自然界の中で、「そのままあなたで存在が許されているのよ、何を小さなことにくよくよしているの、大きな世界のあることを忘れなさんなよ」と呼びかけられている声なき声を聞いて、自然に抱擁されて、自然と一体となっているような「今」という状態でしょう。(念仏して受け取ると更に素晴らしいでしょう)日常の私が非日常の、質を異(日常の延長ではなく、圧倒的に大きい世界)にする智慧のはたらきを感得する感動、驚きの時、その一瞬に自分が何かに受けとめられていた、ほんわりと包み込まれていた、存在が許されていた、おかげさまの世界にすでに居たという安堵と歓喜の時になるでしょう。それは仏の世界(永遠)に出遇い、小賢しさが翻され、執われを超えて智慧の視点へと転ぜられて、生きていく勇気へと導かれるのです。
 真宗教団連合のカレンダーの8月の標語は「信心のひとは その心 すでにつねに 浄土に居す」とありますように、仏の働きの世界、念仏で浄土を感得する者には仏の智慧に照らされて、人間の真実の在り様に気づかされる(真実に触れると私の迷いが明らかになる)でしょう。
 我々の理知分別では「今」の瞬間は捕えようがないのです。その捕えようのない時を感得することを強いて表現するならば、ビックリした、感動した、目からウロコが落ちた、というような、日ごろの考えが覆された時に強い印象で刻まれるような質的な時です。
 この感動やビックリの時の積み重ねが、われわれの思考に影響を及ぼしてくるのです。特に、悟りや智慧の世界からの持続した働きかけ(法話を聞くこと。継続した聞法)は世間の常識といわれるようなものや、私の慣れた思考の内実の虚偽性が明らかにされ、私の思いを翻すような展開を起こしてくるからです。
 例えば「死」とは、今、生きていることの延長線上の未来にあると常識では考えます。ところが仏の智慧では切断された質的な時を考え、一刹那ごとに完結しており、生じては滅すを繰り返していると受け取るのです。もう少し分かりやすく一刹那を一日に延ばすと、朝、目が覚めた時は私の意識の誕生、夜、眠る時が意識の「死」と念仏の中で受け取る生活です。そうすると死が未来の未経験のものから、毎日経験していることのような受け取りへの展開が起こります。その結果、生かされていることに精一杯取り組み、死は仏に「お任せ」となります。死は私には分らない仏の領域の事です。仏に任せるしかないでしょう。(終)

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