9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)

 インターネットの情報交換の場で、今マスコミで話題になっている領土問題で私の友人が「国を愛せないものが、どうして自分を愛することができるか」という趣旨の文章を載せていた。それで思い出されるのがN師の言葉です。N師は大学生の時、自分の前途に希望を見出すことができず、学生生活が自暴自棄(酒に溺れ、自殺未遂、精神科にお世話になり、など)になっていたという。そんな時、「自分を愛することが出来なくて、どうして人を愛することができますか」「善いところも悪いところもみな ○○さんではないですか」と仏教の師から注意されたという。
 自分を愛するとは自分の全てを「私は私で良かった」と受け取ることだと思います。私は私を生涯を通して引き受け、受け取って主体的に生きる事が出来るでしょうか?
 自分自身を考えてみる時、63歳を過ぎた自分の体は、朝起床時、身体のこわばりのある事を実感する。ベッドの上でウオーミングアップをする。身体の柔軟性が無くなってきている。日ごろから足の爪を切るのに柔軟性が無く、やっと切ることが出来ている。時々日頃しない畑仕事や運動をすると腰痛がおこる。腰痛症になると靴下をはくのに苦労する。60歳になるまではメガネなしで日常生活はできていたのに、活字を読んだり、細かい仕事をする時はメガネがはなせなくなった。メガネを必要としない若いころ、メガネをかけると格好良く見えるのではないかと、あこがれていた時もあったが、現実には不便このうえない。まさに「老」の課題である。現在、肥満傾向はあるが幸い治療しなければならない「病気」は今のところない。「死」ぬことは、浄土教のお育てのおかげで「仏さんにお任せ」を信条としており、死の関係の感情が起これば、「また自力の計らいが出てきた、南無阿弥陀仏」、と念仏で切ってもらっている。そして今、ここで生かされている事に集中せよと念仏する。
 仏法では「私」といって固定した「我」を認めず、仏の智慧で「無我」であると教えられている。そして縁次第では何が起こって、どんな状況になっても、それはかねて仏が教えてくれていた「縁起的存在」を再確認させられていくしかない。仏はすで見通されていたのか、と思い当たるところがあり頷かせていただく。
 「無我」の私を愛するとはどういうことであろうか。縁次第では何が起こるか分からない存在、私を、そして私を取り巻く状況を無条件に引き受け、うけ受けとり大事に、“有り難し”として生きていくことだと思っている。最近、同級生で国立病院の副院長をしていた、K君(九大仏教青年会の寮で一緒に生活した仲間)の訃報を頂いた。またガンを患っている同級生の情報も耳に入るようになってきた。私が「老」「病」「死」に直面してもその私を引き受けて大事に生きことを、「自分を愛する」ということではないだろうか。しかし、いざその場面に直面する時、我が身はどう行動をするだろうか………、「念仏して受け取って行きたい」と念願するだけである。
 今、関係している組織の中でお荷物になっている人が、組織に迷惑をかける事を平気でして周囲が迷惑を被っていることがあり会議のたびに問題になるのである。その事を考えると私もついイライラするのです。幸い、「イライラしはじめたな」、と自分を眺め見る仏智を頂いているので振り回されることは少ないかも知れない。その問題をふと考えるたびに、その人は早く辞めてくればよいのにと思うのです。そして辞めるまでにどれくらい組織に迷惑をかけるだろうかと“取りこし苦労”でイライラするのです。
 でもそれは仏がかねて「縁次第では何が起こるか分からない」ということは既に見通されて、教えてくれていたことでした。それを私は私の都合に合わせて思い通りに事を運びたいのです。自分を取り巻く状況を自分に都合のよいことで満たしたい。何と煩悩の欲の深いことか。いや、それはかねて仏が見通されて指摘して教えてくれていたことでした。その現実が「思い当たる」のであります。
 この現実は私に、将来、老・病・死が種々の形で出現しても、思い通りにならない現実を受けとる練習として私に与えられた「場」「土」ではないだろうか。都合の善い自分しか愛することのできない私の煩悩性を厳しく教えてくれているのでしょう。かって青春時代に自分の国が嫌だった。生まれた地域、生まれた家、両親、自分の容姿、能力、生まれた時代が喜んで受け取れなかったことが思い出されます。
 60歳を過ぎて、仏教の学びを今までしながら、今までその内容が点のごとく、少しづつ受け取れていたことが、点が線のように繋がりだすようになってきた。仏法は一生の歩みに関係する、「一生被教育者として歩み」だと思っていたことが今「なるほど」と頷ける。
 自分を愛するということは、単に煩悩の「我愛」によって愛するのではない。まして若い時代の男女の衝動的な愛でもない。愛欲を超えて自分および自分の周囲を大事にする事であろうと思えるようになって来た。仏教では自分と自分の周囲は不可分の関係であると教えています。それを身土不二、依正不二と表現しています。その現実を我々の分別(理知分別)は自分と切り離して、対象化して、分けて考えるのです。私と私の周囲を切り離して向こう側に見て無関係な存在だと見るのです。これを対象化と言います。戦後の学校教育の中で教えられてきたことは物事を向こう側に、客観的に見る見方の「対象化」ということでした。仏教ではこの対象化が人間の迷いの元凶だと教えてくれています。
 なぜでしょうか?
 自分という存在は時間的・空間的(時間空間で周囲の全てを示します。空間は3次元で表す事が出来、それに時間の要素を加えると4次元となる)に関係性を持っている。関係性とは生かされている、支えられている、思われている、願われている、救われている、許されている等の表現で示されるものです。しかし、その事実を、お陰さまとせず、当たり前として、その上で「我思う、ゆえに我あり」と、思うところ、私の脳が働いている、それが私を私たらしめているところだと考えてしまっているのです。そこには「生かされている」、「おかげさま」、「もったいない」、「ありがたい」、という感性は生まれにくいでしょう。
 自分の分別、思いを大事にしてきたと思われる人生の先輩の高齢者と接することの多い医療現場の声は、「年をとってつまらんごとなった」、「こんな状態になって、何もいいことはない。早く死にたい」、「農作業もできんごとなって、老いぼれてしまった」。「役に立たない、迷惑をかける、生きている意味が無い」などなどです。「自分の事は自分が一番、よう知っている」「国を愛さなくて、自分が愛せますか」、「祖先や、両親に感謝するのは人間としての道」と声を大きくして言っていた人たちの現実である。
 仏の眼から見ると、「自分の事を人間は何も分かってない」、「やればできると勘違いして、自分の事が分かってなかった」、「自分を見る目が甘い」、「外向きの視点しかなく(対象化)、自分が見えてなかった」、「夢ばかり追い求めて、足元を見てなかった」、「お互いに嘘を言い合って真実を見てない」、「ノーベル賞級の科学者でも煩悩に負けてしまう」ということでしょう。
 如何に今、時流に乗って、元気よくカッコウの善い事を言っていても、いざという時にはどういう言動をとるか全くわからない。しかし、周りの目や世間の目を気にする人は大きな声や、勢いのある流れに影響され、ながされるのです。
 我々の理知分別に、無意識の領域から大きく影響力を発揮している煩悩(我痴・我慢・我見・我愛)。その煩悩の在り方の事実に気付かない限り、煩悩に振り回されていることさえ気付かないでしょう。仏の光(光明無量)に照らされないかぎり気付くことはないでしょう。
 仏は私の現実を言い当てて、その無明性をはっきりと知らせてくれます。その愚かな私を目当てに仏は南無阿弥陀仏(汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ)と念仏となって私の無明性(智慧が無い、愚かということ)を暴きだし、その者を智慧に照らされて生きる存在に転じ導くのです。
 智慧を頂くことで自分に与えられた場を念仏して受けとり、自分および自分の周囲を全て、引き受け、背負って、責任者として生きる主体、目覚めの主体へと成熟させられるのです。仏教は仏智によって我われを、より理性的に、より知性的になる道を教え、如何なる状況になろうとも「自分を愛し、人生を愛する」存在へと転じさせてくれるのです。

(C)Copyright 1999-2017 Tannisho ni kiku kai. All right reserved.