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 チンパンジーと私たち、人間らしさを知る
松沢 哲郎(京大霊長類研究所)
瀬戸 嗣郎(静岡県立こども病院)
医学界新聞(医学書院発行)第2994号 2012年9月17日より

「進化の隣人」と呼ばれるチンパンジー。500万年前に人間の共通祖先と分化したとされ,現生生物では最も人間に近縁な種の一つと言われている。2005年には,遺伝子配列の約98.8%が人間と同じであることも明らかにされた。そんなチンパンジーと私たち人間,どこが同じで,どこが違うのだろうか。私たち人間とは,何か――?
瀬戸 先生はどのような経緯でチンパンジーの研究を始めたのですか。
松沢 (略)日本のことを知りたい時,海外と比較する人がいます。それと同じで,人間のアウトグループ,人間ではないものに目を向ける。この切り口で,「人間とは何か」という問いに挑戦してきました。人間に最も近縁だけど,人間ではないチンパンジーは,人間を研究するにあたって非常にユニークな存在。人間だけを見ても絶対にわからないことが,チンパンジーを研究してわかってきました。 (略)
あおむけの人間らしさ
瀬戸 アイとアユムの親子研究から明らかになった,人間とチンパンジーの発達過程や育児過程における違いは何でしょうか。
松沢 乳児期の人間らしい特徴として挙げられるのが,あおむけの姿勢です1)。赤ちゃんの時期にあおむけの状態で安定するのは,実は人間だけ。人間の親は,赤ちゃんが生まれたその日から横にポンと置きますよね。一方チンパンジーは,生後3か月ごろまで子どもを一切離しません。互いに抱き合って生活しています。
瀬戸 なぜ人間はあおむけに寝かされ,チンパンジーはそうされないのですか。
松沢 そもそもの生物学的な繁殖戦略が違うからでしょう。チンパンジーの場合,母親が一人で子育てをします。もちろん生物学上のお父さんはいますが,特に何もしません。母親は子どもがある程度大きくなるまでしっかり世話をするため,5年間は次の子どもを産まないのです。
瀬戸 5年も! それまでは母親の体が出産に向けて整わないのですか?
松沢 はい,出産後4年間は発情しません。一方人間は,多くの場合生まれたその日から,父親,祖父母,きょうだいと,いろんな人が子育てに参加します。こうして多くの人が子どもに関わるため,母親は短期間に複数の子どもを出産しても,同時に育てられるようになりました。(略)
瀬戸 チンパンジーの母子が一対一の育児関係であるのに対して,人間は赤ちゃん一人に対して大勢が関わる。そんな違いがあるのですね。
松沢 こうしてあおむけで寝るようになった人間は,3つの重要な特徴を持ったと考えています。
まずは,対面コミュニケーション。あおむけにされると,両親や祖父母,周囲の人からのぞき込まれますね。すると,次第に赤ちゃんは反応するようになる。相手の目をみて,あんなにニコニコ笑うのは,人間の赤ちゃんだけです。
瀬戸 人間は生後1か月半から2か月で,ニコッと微笑むようになりますね。大人が世話したくなるのもわかります。
松沢 二つ目は,声によるコミュニケーション。チンパンジーの子どもは夜泣きをしません。なぜなら,おなかがすけば自分で目の前にいる母親のおっぱいを探せばいいのですから。でも人間の場合,母親が離れているため,泣いて呼ばなければなりません。それに対して母親も,「どうしたの?」と声をかけます。声のコミュニケーションは,赤ちゃんが言葉を喋る以前から始まっているのです。
最後が手と道具です。チンパンジーも大人になれば道具を使用しますが,生後4-5か月で何か物を操作することはありません。人間はあおむけで手が自由だから,早くから物を扱えるようになったと考えられます。
瀬戸 確かに人間の赤ちゃんは早期から物を持ち替えたりして遊びますね。
松沢 よく本には,人間は二本足で立つようになったことで,手が自由になり,物を扱えるようになったと書いてありますが,あれは間違いだと思います。なぜなら私たちは赤ちゃんのころから,つまり立てるようになる前から,あおむけの状態でいろんな物を操作していますよね。人間の道具使用,ひいては脳を進化させたのは,二足歩行ではなく,あおむけの姿勢だったのです。
瀬戸 赤ちゃんがあおむけに寝かされることひとつから,こんなにさまざまな人間らしさが見つかるのですね。(略)
いまここを生きている
瀬戸 もう一つ,とても印象的だったのが寝たきりになったレオのエピソードですね。
2006年,霊長類研究所にいる当時24歳のレオというオスのチンパンジーが,急性四肢不全麻痺を発症。当初は重篤な寝たきり状態で,褥瘡もひどく,スタッフは24時間体制で看護にあたった。現在では,自力で移動できるまでに回復している。
松沢 レオの素晴らしかったところは,とてもひどい褥瘡で,体もほとんど動かせない状態だったにもかかわらず,全然めげていなかったことです。
瀬戸 苦痛の感情は示しますよね?
松沢 もちろん痛みは感じているでしょうが,生きる希望を失ったと解釈できる素振りが全くありませんでした。例えば,レオはこっそり水を口に含んで女子学生にピュッとふきかけるいたずらを,元気だったときと同じように病気になってもしていたんです。学生が「キャッ」と反応すると,すごくうれしそうな顔をするんですよ。以前のレオと,何も変わりませんでした。 最初は,私たちのほうが悲観してしまうほどの状態だったのに,レオはいつもと変わらない様子のまま,徐々に回復しました。上半身を起こせるようになり,座れるようになり,そしてよちよち歩くようになったのです。
瀬戸 想像を上回る回復力ですね。
松沢 そこで,2010年にレオが回復した話を論文で発表しました。すると,たちまち海外の研究者から反応があって,「これは日本独自のすごくユニークな研究だ」と驚かれました。最初は何のことかと思いましたが,要するに,褥瘡まみれでやつれたチンパンジーを助けようとするのは日本人の独特な発想。欧米だともっと早い段階で,かわいそうだと決めつけて安楽死させてしまうのでしょう。
瀬戸 日本と欧米では宗教や文化が違うから,倫理観も大きく異なるのでしょうね。医療の世界でも似たような差がみられます。回復する見込みがなく,本人の精神活動もほとんど外からはわからない状態に子どもが陥った場合,僕の経験からするとほとんどの母親が「生きていてくれるだけで十分」と延命を希望します。管や人工呼吸器をつけてでも,ケアの継続を願うのです。それに対して欧米,特に北欧の人は「そうした治療は本人を苦しませる」と考えます。
松沢 レオに対する海外の研究者と同じ発想ですね。
瀬戸 そう。「虐待だ」と言うんですよね。
松沢 本当にそうでしょうか?  レオが少しずつ動けるようになったころから,私たちはレオがもっと積極的に動けるよう認知課題に工夫をしました。通常は,問題を解くと目の前に出すご褒美を,3 m離れた場所から出すようにしたのです。問題を解く毎に往復で6 m,毎回100個の課題があるから最長600 m歩くことになります。レオはその課題を,ゆっくり,自発的に毎日こなし,ついには膝は曲がらないものの自力で歩けるようになりました。「チンパンジーのリハビリ学」が世界で初めてできたのです。欧米ではあり得ないでしょうが,レオは今も日々課題に取り組み,生きています。
私はレオの事例をもって,「チンパンジーは絶望しないんだ」と感じました。科学論文としては書けないけれど,レオの様子はそう思わせるのに十分でした。
瀬戸 今,いたずらを楽しみ,今,目の前の課題をこなす。レオは「今」のつながりの中で生きているのですね。
松沢 そう。私はそれを「いまここを生きている」と表現しています。(略)

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