11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)

 医学の進歩は日進月歩であるが、医学・医療の基本は人間の自然の治癒力にのっかって力を発揮しているということです。人体の構造、機能の複雑巧妙さ、そして精神活動まで含めれば、人知を超えた不思議な人間力としかいいようがありません。キリスト教では「神が人間を創造した」と言っているくらい、現在の科学でも生物の生命の神秘的なからくりは解明できてないのですから……。
 生命現象の中で、病気がよくなるに場合に自然の治癒力が大きな役割をしていることは医療の仕事の経験を積めば積むほど分かってくることです。誤解を恐れずに言うならば、よくなる病気はよくなる、良くならない病気は良くならないということです。しかし、日本人は老化現象でも病気としてしまい、その治癒のために医療・医学・薬に対する信頼は信仰に近いものがあります。
 例えば多くの患者は医師が処方する薬剤が病気をよくすると思っていますが、よく考えたら薬は補助的な役割だと納得できるでしょう。集中治療室で何らかの理由で血圧が下がると昇圧剤を使います。体力(治癒力を含む)のある間は身体の臓器は薬に反応して血圧は維持されて行きます。しかし、体力・治癒力がなくなると薬にも反応しなくなります。薬を増量しても、さらに強力な薬剤を使っても血圧を維持できなくなるのは体力・自然治癒力が弱り、体の臓器が薬剤に反応しなくなるということです。薬によって良くなるのであれば薬を調整することで良くなるはずです。いくら最新・最良の薬であっても身体の臓器が反応しなくなれば効果は出てきません。これらのことから知らされるのは、病気がよくなるのに重要な決定的な要因は人間の自然の治癒力だということです。
 それで治癒力のる患者は良くなり、治癒力のない患者は良くならないということです。医療側の責任として治癒力のある患者を確実に良い方向へ導くという責任はあります。少なくとも患者の治癒力の邪魔をしないということも大事です。感冒などで発熱した時、すぐに解熱剤を処方する医師もいますが、最近の考えでは解熱剤は病気の治癒力を弱めるから積極的には使わない方が早くよくなると考えられています。人知で人間全体を把握したつもり(人体の現象面で大まかに把握、と言う意味)で医療の仕事をすると、時に治療が思うよう(想定したように)に進まないときは、現在医学の知識の不十分さや医療の不確実性によって患者さんに迷惑をかけることがあり、申し訳ないと反省することがたびたびあります。まして、アメリカの小話に「神(自然の治癒力)が病気を良くして医者が治療費を取る」といわれるようになると………、面目ないことです。
 医学の依って立つ思考は科学であります。科学の根本原理は、客観性と再現性です。いつでも、どこでも、誰がやっても、ほぼ同じ結果が得られるときに、その結論が科学の大系に組み込まれていきます。個人的な個別体験はデータから極力除かれるように配慮されています。そのためには、「誰が何をした」と主語を使って表現するのではなく、主語を消して 「何が起こった」と客観的に表現することが求められています。
 客観的な事実やその統計資料にもとづく医療が現代の日本の医療ということができます。 しかし、客観性を尊重するが故に、科学だけでは人間の現象の全体を把握できないということがあります。
 仏法の師が、お話の中で、「母の涙」という喩え話をされていたことを聞いたことがあります。母の涙を分析的に解明していって、それを再統合することで母の涙の全体像を説明できるかというと、場合によれば、とんでもない把握になってしまうでしょうといわれていました。人間を研究の対象にする場合は、客観的な把握に適してない感性などの要素が抜け落ちてしまう可能性が高いからです。
 科学は、いろいろな現象から、それらを説明できる仮説を立てて、法則とします。その法則が通じる間は、それが科学的真実と見なされるのです。その法則が通じない事例が起こってくると、その事例を含めて今までの現象をすべて説明できる新しい仮説を考え出してきたという事を歴史がしめしています。 科学的真実というのは常に「仮説である」ということを超えることはできないということです。
 いろんな分野で、科学的真理(法則、原理など)を見つけようと多くの科学関係者が取り組みをしています。医学の分野でも生物学的な新しい発見が次から次へとなされて論文に先陣争いをしながら発表がなされています。科学の知見(分かったこと)は時代と共に積み重ねられていきます。 しかし、それはただの知識になるだけです。 宇宙の真理を発見したからと言って、その発見の中に発見者自身(特に私の自我意識)は含まれていません。 それはあくまでも対象を自分以外の「物」として捉えて、それについての知識を得る、それが科学だからです。
   一方仏教における知識には、自分が含まれています。仏の智慧は自分を含んで全体を見通す視点ということができます。仏の智慧は、無量光として私全体を照らし出し、照らし育てて、私の自我の殻を照らし破るはたらきを展開します。
 「教え」は本来、「教えて何何せしめる」という、変化させる性質を持っているとお聞きしてきました。 人間の人格性を変化せしめるということです。 具体的には智慧のある存在たらしめられるということでしょう。人間が成熟するということです。そのために「仏教の教え」は人をして変化せしめるということがないと意味がありません(仏教と言えないのです)。
 仏教の勉強というのは自分を勉強するということです。自分が分かると自然と変化せしめられるということでしょう。内心渉境(内心境に渉る)という言葉があります。 内なる思い(内容)が外の境涯に関係交渉を持ってくる。 内なる考えが顔色に出たり態度に出てきたりするのです。
 我々は健康で長生きのために医学・医療の進歩をどこまで期待してよいのだろうか。医学・医療を過大評価しても、過小評価しても、悪いのです。医学・医療を信仰するように過剰な期待をして医療者にお任せするは、医療の不確実性を知るものは“危ういさ”を感じるのです。あるがままをあるがままに見ることの智慧が大切です。人間全体(私の自我意識を含めていることが大事です)を考えて良い方向性を見いだす仏の智慧がだいじではないでしょか。
 唯物論的な近代科学は医療の面でも大きな進歩をもたらしました。その科学を考える時、原子力の利用の是非を論じた、槌田 劭(たかし)(京都精華大学元理事長、現相談役、南御堂2012年1月号より)氏の次の記事が響いてきます。
 原発の危険と罪を論じた時に、「おまえは科学の進歩を信じないのか」と非難されたものである。信ずる世界は大切だが、科学を信ずるように強制するようでは、新興の邪教「科学技術教」に堕したというしかない。絶対自力の傲慢である。科学技術の進歩を、どこまで追い求めれば満足することができるのだろうか。もっと豊かにもっと便利にと飽くことを知らぬ欲望こそが、今問われている。それは煩悩の極致であり、餓鬼道地獄の急坂転落となるだろう。

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