12月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)

 現在日本で教育を普通に受けた者は次のように考えることが多いと思います。
 自分が生まれるに先立って宇宙は137億年前のビッグバン以来存在してきた。その後、46億年前に地球は誕生して今日まで地球の上の地上世界は続いている。その世界は、過去―現在―未来という直線でモデル化できるような時間が流れており、広がりとしての空間がある。それは誰にとっても同一の世界である。そこには山や川や海や、種々の生物たちの自然環境があり、人間も進化の過程の中で約20万年まえにホモ・サピエンスとして生まれて、その後の人類の地球上での移動の展開によって人間相互関係の中で社会的集団を形成して、種々の歴史を経ながら文化を発展させてきた。
 そういう世界に、ある時私がたまたま偶然にも生まれ出て、社会生活をして、ある時間を経過して老・病・死と死んでいく。私の人生は「生まれてから死ぬまで」と線分で説明できるようなものである。そして私が死んでも、私がいないだけの世界はあい変わらず続いていく。これが「私たちの世界」といったような感覚の常識的な世界観を我われはもってしまっています。常識的な世界観では誰にとっても世界は同一であり、誰がみても変わらない一つの世界がある、と考えています。
 私と世界の関係を考える時、仏教の世界観をでは、たとえとして「海と波」の関係が教えられています。海をイメージして大きな波のある時と、波のない凪(なぎ)の時の海を思い浮かべてみて下さい。
 「静かな海があり、そこに波が生じます。波は生じて、しばらくすると、再び海へと消え去ります。」
 この現象を上記の世界観と同じような常識的な思考、理知分別の立場、すなわち「我思う、故に我あり」という発想でみていくと次のような表現に展開していくでしょう。
 生じた波が突然、「わたしは波であって、海ではない。波として生まれ、波として永遠に生きるのだ」というのです。波が波としての自覚をもつことは、成長のプロセスの一段階として自然なことであり、大人として健全な社会生活を営むうえで大切なことですが、これは物事の全体をあるがままをあるがままに把握していることになっているかということです。
 自分は海へと消え去ることなく、いつまでも波としてあり続けるかのように思ってしまうからです。しかし、そのような意に反して、波である以上、現実にはかならず海へと消え去らざるを得ない日がやってきます。それを知ることから恐怖が生じてきます。永遠につづくべき「わたし」と死ぬべき自己との葛藤、「わたし」のアイデンティティが壊れることへの恐れといってもいい思いを持つ可能性があります。
 また、自分が海に由来していることや、他の波も自分と同じ海に由来していることが見失われてしまっています。海も他の波も、自分とまったくつながりがなく、バラバラに存在しているかのように思われるのです。独りぼっちだという想いを、どうしようもなく強くもってしまいます。孤独の苦しみを仏教では地獄といいます。(ばらばらコスモロジー(註))
 波が波しぶきとなって、海からまったく切り離されてしまうと、どこにも基盤をもたないまま、フワリフワリと空中をただよっているような存在にみえてきます。どこにも依り所はなく、自分の存在が何に由来するのか、その根拠も分からなくなります。わたしはいったい、どこから来て、どこへ行くのだろうか、と。
 一方理知分別ではなく仏教の智慧(仏智)による発想では「縁起の法」を基本としています。つながりコスモロジーということもできるでしょう。それによると、波はもともと海であり、生じても海であり、消え去っても海です。海が一時的に波という形をとっているだけなのです。波という形をとることは、海にとって必要なことなのです。なぜなら、波にならなければ、海自身を見ることができないからです。
 波としての自覚を持ち、大人として健全な社会生活を営みながら、自分が海であることを忘れません。波でありながら海であることは、矛盾でも何でもありません。自分の由来を理解し、根拠もはっきりしているので、安心して、波であるあいだは波である続けます。海へと消え去るときも、安心して消え去ることができます。また、他の波も自分と同じ海に由来していることを理解しているので、独りぼっちだなどとはけっして思いません。
 現実として、私たちはもともと宇宙(夜空を見上げて単純にイメージする、物質的な暗黒の宇宙ではなく、こころを含んだ宇宙)であり、生じても宇宙であり、消え去っても宇宙です。宇宙が一時的に私たちという形をとっているだけなのです。
 もともと宇宙であり、宇宙が一時的に形をとっている生命にたどる自然なプロセスとして、生まれること、生きること、死ぬことがあります。それがこころの奥底から受けいれられれば、生きるのもよし(嫌でない)、死ぬのもよし(怖くない)という気持ちになれます。いいかえれば、さわやかに生き、おだやかに死ぬことができるようになるのです。物事を正しく、あるがままをあるがままにみる仏の智慧の目の視点ということができます。
 われわれが苦しむ(苦諦)のは我執や煩悩による(集諦)と仏教では教えます。私たちは執われと欲に汚染された目を持って物事を見て、自分の思いの通りに事を運ぼうという邪(よこし)な心で物事を見て、考えて、行動していくから、いろんな場面で「思うようにならない」という気持ちが起こるのです。それを「苦」というのです。
 あるがままをあるがままに見る智慧の目で物事を見て、考えていくとき、その現実に随順していけるのです(滅諦)。我われの身体は現実の老病(死)を受け入れているのです。しかし、私の分別が受け入れるのに抵抗するのです。分別で汚れ、歪められた眼が浄化されるとき、その現実を受容する方向に導かれるのです。それを自力でするか、仏の智慧(他力)で浄化してもらうか。自分の心がけ、努力・精進で浄化しようと心がける人は自分のけなげに努力する姿を肯定的に見ていくでしょう。そして限りなく努力することを「是」と見ます。そこでは自分の相(すがた)を見る目があまくなります。現在の日本人の多くはその傾向にあると思われます。
 幸いに浄土の教えに出遇い、教えに照らし育てられ、自我の執われの殻が照らし破られるご縁を頂いた者は、自分の罪悪深重の姿に落在して、自然と智慧を頂く歩みに導かれるでしょう。自力精進の道を歩む人からは「怠け者の道」と言ってけなされるかもしれません。言われれば、その現実を念仏して甘んじて受けとめて生きるしかありません。
 釈尊の説かれた仏説無量寿経の浄土教の流れに預かる者は、皆、その事に徹した人達でした。その教えの流れに預かった、よき師・よき友(我われの一歩前を歩く)の後ろ姿に仏の徳を拝まずにはおれないのです。智慧を頂く者は物事をより理性的、知性的に批判し判断して、その現実を念仏で受けとめる道に立たされます。与えられた場をこれが私の担うべき現実と、念仏して歩んでいくのです。
(註)宇宙論(cosmology)コスモロジーとは、「宇宙」や「世界」などと呼ばれる人間をとりかこむ何らかの広がり全体、広義には、それの中における人間の位置、に関する言及、論、研究などのことである。
(スタニパータ、さわやかに、生きる、死ぬ。羽矢辰夫著、NHK出版2007年 より多くを引用、文責は田畑にあります)

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