1月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)
「念仏もうさるべし。」『蓮如上人御一代記聞書』(東聖典p854、西聖典註釈版 p1231 )
「あけましておめでとう」、新しい年を迎えることができた喜びがここには込められています。それは決しておめでたい出来事が続いているということではありません。かえって問題多き現実を生きているからこそ、新しい年に対する期待が大きいのです。「今年こそは良い年でありますように」とは、いつの時代も願われてきたことではないでしょうか。
表題に挙げた言葉は、蓮如(1415〜1499)が京都の勧修寺村に住む道徳という人に向かって語った言葉として伝えられるものです。道徳は日頃から蓮如を尊敬し慕っていましたが、明応2年(1493)の正月1日に蓮如を訪ね、新年の挨拶を申し述べたのです。その道徳に対して蓮如は「道徳はいくつになるぞ。道徳、念仏もうさるべし」と語ったのです。年号から計算すると蓮如が79歳、道徳は5つ年下ですから74歳の時のことであることがわかります。
「念仏もうす」とは、自分にとって都合の良いことを仏にお願いすることではありません。また、悪いことが起こらないようにするための呪文でもありません。仏の教えを念ずることを通して、自分の生き方を見つめ直すことにほかなりません。長い間、蓮如の教えを聞き続けてきた道徳がそのことを知らないはずはありません。しかし蓮如は年の始めに当たって、改めて念仏をすすめているのです。
おそらく道徳は、お正月のお参り(修正会)にやってきたのでしょう。それはややもすると、年中行事として儀礼化してしまうものです。蓮如の言葉は、いくつになっても決して忘れてはならない原点が、念仏であることを教えています。そこには念仏を離れるならば、忙しさに追われて自分の生き方を問うこともない私たちの姿が見据えられていると思います。
今年はどんなことがあるだろう、と期待に胸をふくらませるお正月。そんな私たちにとって、蓮如の「念仏もうさるべし」という言葉は、何をより所として生きるのかを呼びかけています。それがはっきりしない限り、1年はまたもや空しく過ぎることになるのではないでしょうか。( 大谷大学hpより )
「何をより所に生きるのか」を考える時、真宗光明団のご正忌(親鸞聖人のご命日を浄土真宗では報恩講として勤める)の準備をしていて厳しい言葉に出合いました。大峯顕先生の講義録です。
「フィヒテの生の哲学」 : 魂不滅の思想の伝統は、デカルトを経てずっと十九世紀までヨーロッパにつづいていますが、唯ひとりフィヒテだけは、実体的な魂の存在に批判を加えた人でした。この点が仏教に似ているのです。この人は『知識学』という難しい哲学を書いたのですが、私は永年それを研究したお蔭で頭が禿げちゃったのです。お蔭で頭を鍛えられました。彼は次のように言っています。『知識学』つまり自分の哲学は、キリスト教の言うような魂の不死・不滅については何一つ言わない。なぜならそんな実体的な魂は存在しないからである。いわゆる肉体が壊れても壊れないような魂というようなものはない。それは真理を知らない人間が抱いている亡霊に過ぎない。だから不死ということもない。なぜなら、もともと無いものについては不死ということをわざわざいう必要がないからである。
それでは『知識学』にとって何があるかといえば、いたるところ生命がある。死はない。死はどこにあるかといえば、ほんとうの生を見ることができない人間の死んだ目の中にあるだけである。したがって、人間は死ぬと言っている人は本当に生きていない人で、初めから死んでいる人だとフィヒテは言っています。
これは真理ですね。「死が怖い」と言っている人は、ほんとうの生を知らないからです。だから、死んだら困る、という人にだけ死があるのです。「死ぬことは阿弥陀さんにまかしてあります」という人には死はありません。これは真理ではないですか。阿弥陀さんは「お前は死ぬぞ」とは仰らない。阿弥陀さんは「お前は仏になる」と仰ってるのだから、その通りに受け入れて、あとは余計なはからいを一切しない。こういう人は死なないで往生するのです。真宗の信をほんとうにいただいた人はみなそうです。妙好人は死にません。浅原才市は、「私は臨終も葬式もすんだ」と言う。それでは何をしているのか。「ナンマンダブと一緒に生きている」、と言っています。
{「死が怖い」と言っている人は、ほんとうの「生」を知らないからです。だから、死んだら困る、という人にだけ死があるのです。} 何と厳しい言葉でしょう。仏教では本当の肯定は否定を通しての肯定と教えられています。破邪顕正とも言われています。
哲学・宗教の基礎のない者(私を含めて実学を生きてきた者は)は科学の世界で「何々の原理、法則」というもので思考するのになれていて「否定を通した肯定」という発想になじみがないものです。しかし、「死」と言うものを考える時、ギリシャの哲学者の如く、「生きている内には死なない」といって、死を見ないように、死を無視して、死をないかのごとく考えて死を避けて考えない思考は、否定を通さない肯定になっていくので、結果として「生を輝かせる」ことにはならないのではないかと思われます。「生きているうちが華だ」と生を謳歌しようとしても「死への不安」を潜在的に抱えざるをえないでしょう。そのほころびは何らかのきっかけで容易に必ず露呈してしまうでしょう。
いくら長生きして生きても、迷いを繰り返し空過流転であれば生きたことにならないと言うのです。何になるか? それは虚しい、愚痴の人生になると言うのです。臨床の現場で出会う高齢者の多くは愚痴を言うことが多い。事実かも知れないが、朝起床の時から、自分の体を観察して身体のすみずみまで悪いところを調べて医師に訴えようとします、病状の情報収集には貴重な情報ですが……。身体的な健康を目指すがために、体調の満点(若い元気な時の体調)を目指せば、目指すほど悪いところが次から次にと思い出されるのです。
縁起の理法によれば、一刹那ごとに生滅を繰り返している我々のあり方は、滅するのが当然のことです。生かされていることが「有る事かたし」なのです。「死」という状態が当然の私が幸いにも今、ここに生かされているのです。
生きることで目指す方向性はどこか?、生きることで果たす使命・役割・仕事は何か?、私の人生において迫り来る老病死の現実は私に何を教え、悟らせようとしてあるのであろうか。仏の教え、仏の心に触れる念仏の歩みにおいて、往生浄土の歩みが、我々の惑・業・苦の「迷い」の連鎖から「正気」に連れ戻す働きを展開するのです。
仏教の言葉は常に自分の内面を照らしだす鏡です。決して他人を批判する言葉ではありません。教えに照らされて自分の歩みを問い続けるということが大切なのです。(つづく) |