2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)

 仏教は日本の文化に内観という世界を広げる貢献をしたとある方が言われていた。仏教が伝来するまで神道的な something great という自然の背後にある神々しさ(自然霊、人物霊など)という表現での世界観の広がりはあったのでしょうが、心の内面深くまでの思索は日本の文化のなかでは育たなかったという。(ある哲学者の発言より)
 仏教の学びをすることになった貴重なるご縁に巡り合った者にとって、仏教の学びは未知なる宝の蔵を探っていくような感動をたびたび味あわせてくれる。それにつけても先人の学びのご苦労に感謝せずにはおれないはずなのに、なかなか頭を下げようとしない私です。
 年と共に知らされるという感覚は、今まで、点のように知識として積み重ねて知ることができてきたことや、聞法のお話のなかで印象に残る処が断片的に脳裏に刻まれて存在していたことが、ある時、講話録を読みながら、そのお話の内容に頷きを持てるような展開があると、それに連れて次から次へと断片的に受け取れていたものが線のようにつながっていくのです。最近では大峯先生の講演録の中のハイデッカーの思考の内容でした。
 「ハイデッカーは思考について二種類あると言っている。純粋で根源的か思考と計算的思考です。自然科学がやっているのは計算的思考です。あれは計算しているのであって本当に考えているのではありません。科学の計算的思考というものは、思考の局地化です。つまり、一地方を日本全体だと思ってしまうような局地化です。全体的思考とは何かといったら、人間が物を支配しようとしない思考のことです。物を管理するとは支配するとかいう思惟は計算的思考です。
 ハイデッカーは本当の思惟はどういう思惟かと言ったら、人間が『物のいうことを聞く』という態度だと言うのです。万物が語っていることに人間がつつましく耳を傾ける。物が我々に向って語りかけている言葉を聞くということが、本当の物を考えるということだと言うのです。普通はそういうのを宗教的な心情と言うのですけれども、そうではなくて、ハイデッカーはそれが人間存在の在り方としての思惟だと言うのです。この宇宙の中に生きている人間が人間として存在するとき、どうしてもなくてはならない人間の生き方はそこにあると発言しているわけです。」
 この文章を読んで(1)人間の分別の思考は対象化になりやすい。(2)道元禅師の言葉、『自己をはこびて 万法を修証するを まよいとし、万法すすみて 自己を修証するを 悟りとす』(3)我々の思考は理知的と思っているかもしれないが、心が煩悩に汚染されている。(4)フランクルの言葉、「人生に期待するのは間違っている。人生の方が私たちに期待しているのだ。」 (5)誇らしかった息子が挫折して帰郷し、親のすねをかじりながら、母親に「親の育て方が悪いからこんな私になった」と責める、ということでその親から相談を受けたことがあったこと。 (6)清沢満之の「天命に安んじて人事を尽くす」(7)私自身の親に反発した心の遍歴、(8)親不孝であること、などなどがつながって受け取れるように展開するのです。まさに点から線へ、線から面へと広がっていくのです。
 その事を通して私の拠り所の理知・分別の未熟さ、思考の狭さ、愚かさ、囚われがあったことを知らされることになります。その結果、分別の思考、行動が、迷いを繰り返すという悪循環になっていたを知らされるのです。そのような気づき、目覚めに導かれるのは先人の思索・思考のお陰で気付かされること、同時に仏教の智慧の世界のまさに“無量の光、無量光”と言われるように大きいことに圧倒されるのです。
 還暦を過ぎ、世俗の流れのいわゆる定年延長の期日の65歳に近付こうとする今日、この頃、仏教の師からは「ぼちぼち、ムシロをたたむ用意をしなければ」、「世間の仕事は余力を残して辞めなさい、後生の一大事の解決がつくということが大事です」と言われていた年齢にすでになっています。しかし、自分の心の状況を思うと、良い意味・悪い意味で“前途洋洋”です。

 少年老い易く学成り難し、一寸の光陰軽んずべからず。 未だ覚めず池塘春草(ちとうしゅんそう)の夢、階前の梧葉(ごよう)すでに秋声。(朱子「偶成」)

 「分かっちゃいるけどやめられない」、いや、わかっていないのです。私にとって身に染み付いた思考が理知分別です。仏法の世界は「一生が被教育者としての歩み」である言葉がなるほどと思い当たるのです。そうすると「ゴールに辿り着くということはないのですか」という問いが自然と出てきますが、仏教の中道の教えは出発点、到達点という発想は執われの考え方と教えています。
 正信偈の中の龍樹章で、「龍樹大士出於世 悉能摧破有無見」、龍樹菩は有無の見を破ったとあるのは出発点・到達点があるとの考えは有る、無しの囚われた考えで、仏道は道に立つことが大切で、道を歩み続けるということが仏道の全てであると教えるのです。それは一瞬・一瞬(仏教では刹那という)ごとに生じては滅し、その都度完結して有るということでもあるのです。ですから未完結の、し残した感情の未練という発想は生じなくなるのです。
 そうはいってもマラソンではスタートとゴールがある、勤務時間に始まりと終わりがあるではないか? そうです、自分の分別で把握できる範囲のものには出発とゴールはあってよいのです。分別の把握を超えるものの把握・認識において、私の分別で自分を超えた大きなものを有るとか無い、分かったとか分からないと言うことは間違いだと教えられています。人間全体、人生全体、仏の智慧の世界(無量光)などを思考するときは、分別の把握を超えているので、その領域を自分勝手に把握したと判断したら、その時点でその物事を自分の分別で矮小化してしまうということでしょう。そこではまさに「ものの言うことを聞く」という姿勢が求められるということです。
 分別の計算的思考は、対象を観察して、利用価値の有・無、役に立つ・立たない、自分の損・得、勝ち・負け、善・悪、などなど。まさに計算して判断していくのです。そしてあわよくば自分の思いを実現するように管理・支配し、利用しようと企てます。分別は分別の分際を超えたものが有るということを認めません。今、支配・管理できなくても、将来必ず管理できるようになると自己過信して傲慢なのです。
 根源的な思考、全体的な思考とは自分の分際・限界を謙虚に受け取り、あるがままを、あるがままに受け取り、より理性的・知性的に考え、判断する、と同時にこの具体的な現実、現象は私に何を教えよう、気付かせようとしているのかと思考していくのです。この時の自分は我執の執れを謙虚に見つめ、  「仏さん、ご照覧あれ」と、与えられた場を引き受け、これが仏さんからいただいた役割、使命、仕事として、念仏して精一杯の努力をおしまず、利用できるものは何でも利用して、仕事を目的のごとくに念仏して受けとめ、人事を尽くすのです。

 「誠こめて 放ちし矢なり 念願のまとに あたるも あたらざらんも」(九条武子夫人)

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