3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2556)
宗教を知る上で教えられる法話に出会いました。それはインターネト世界で公開されている岡西法英師の法話原稿です。 田畑が勝手に修正(文責は田畑)し、三回にわたって紹介します。
「人間、後生が一大事、人間は生き物、苦悩の生き物」(T)
仏法は何のために人の世に現れたのか、二千五百年前のインドの話ではありません。今ここにいる私は人間である。その人間であることの意味を明らかにしようとするのが仏法なのです。
宗教は人間のかかえている究極的な問題、即ち老病死の苦悩の解決にかかわるものであります。釈尊が出家される機縁となったのもその問題であり、老病死が迫っていることに気づくとき、人間は今ここに生きていることの意味を問わずにはいられません。この問題を解決しようとするところに宗教の根本的な意義があります。これが、「生死出ずべき道」と表され、「後生の一大事」といわれてきた仏法のテーマです。
人間とは何か。人間はまず生き物です。生まれてきた、老いてゆく、病むことのある、そして必ず死ぬ、それが生き物です。折角生まれてきたのに、結局は死ぬというのではありません。生まれたものは死ぬ、その死んでいく命を引き継いで生きるために生まれてきたのでありましょう。
現在地球上には七十億を越える人間が住んでいますが、そのうちの三分の二程の人々はキリスト教・イスラム教・ユダヤ教の影響を受けています。これら三つの宗教が共通に持っているのが旧約聖書に書かれた天地創造の物語だと聞いています。
それによれば、神はこの世界を作られた後で、自分の姿に似せて人間をお作りになった。最初は、土の塵をかき集めて息を吹き込み、人ひとりだけを作られ、エデンの園という楽園に住まわせ、次のように言われた。お前はここで好きな木の実をすきなだけ食べよ。ただし、善悪を知る木の実だけは食べてはならぬ。食べれば必ず死ぬと。
この人アダムは神が作った全てのものに名をつけた。そして神はアダム一人では寂しかろうというので、もう一度アダムを眠らせ、脇腹の骨を一本取り出して、それで女を作られた。で、アダムは男ということになったわけです。
エデンの森に住んでいた生き物の中で一番こざかしかったのは蛇であった。蛇は女を惑わせて、エデンの園の真ん中に生えた善悪を知る知恵の木の実を食べるように勧めた。そそのかされた女は美味しそうなその実を見てこれを食べればそんなに賢くなれるのかしらと思い、とうとうその実を取って食べ、夫のアダムにも食べさせた。途端に知恵の眼が開いて、二人は自分たちが裸であることに気づき、無花果の葉で前を覆い隠す腰巻きをつけるようになった。そして、神がやって来られると木の間に身を隠した。
神は二人からことの次第を聞くと、罰を与えられた。女は妊娠と出産の苦しみを背負い、夫に支配されるように、そしてアダムは神に背いて禁断の木の実を食うことによって土を汚したが故に、罰として生えたいばらの大地から額に汗して働いて野菜を採って食べ、最後は死んでもとの土の塵に帰るようにさせられた。アダムはその妻をイブと名づけた。そして二人はエデンの楽園を追い出された。
これによれば、人間は神に似せて神が作ったもので、もとは産んだり生まれたりするものではなかったというのです。それが、神に背いた。知恵を身につけてしまった。神から身を隠すようになった。その罰として人は死ぬようになった。だから、跡継ぎを女がお産の苦しみの中から生まなければならなくなった。人は生まれ、人は死ぬようになったというのです。
男は妻子を養うために労働の辛さに耐えながら大地を耕し食べ物を得なければならなくなったというわけです。わたしたちはこのふたりの罪人の子孫である。二人が犯した罪こそ全ての罪悪の大本である原罪であるというのです。
人が生まれ、老いて病んで死ぬのは罰であった。出産の苦しみも罰、労働の苦しみも罰であるということになります。 何の罰か、神に背いた罰。その中身は何か、知恵を身につけたこと。けものにはない知恵、しかし神の知恵とは違う神に背く知恵、要するに不完全で中途半端な知恵が災いのもとだということではないかと思います。
これより先、ギリシャの人々は、話は全く違いますが共通点もある神話を持っていました。スフインクスにまつわる物語です。エジプトのピラミッドのそばのあれがスフインクスの像です。ギリシャ神話がエジプトに伝わったのです。
古代ギリシャの都市国家の一つテーバイの王ライオスはオリンポスの神のお告げによって、今度産まれてくる子が成長したならば、父を殺し母を妻とするであろうと知らされました。そこで、人に命じて殺させようとしました。その人はかわいそうになり子供の足を木の枝にくくり付けぶら下げたまま帰ってしまいました。これを見つけたひとりの百姓は、自分の主人の所へ連れていきました。そこでこの子は育てられて、オイデプスと名づけられました。そして歳月は流れ、オイデポスは青年になりました。そして彼自身もまた、成人式の後の神官からの神の告げとして、自分の恐ろしい運命を聞くのです。彼は今の育ての親しか知りません。ここにいてはならない。そんなことが起こらないようにと、旅に出たのでした。
さて一方、ライオス王はただ一人の家来を連れただけで、デルポイの町へ出かけて行きました。そして、途中の狭い道の所で、一人の青年と出くわしました。道を譲れ譲らないのいさかいとなり、青年はライオス王と従者の二人とも切り殺してしまいました。その青年こそオイデポスその人だったのです。彼は知らずして父を殺してしまったのです。
その後間もなく、テーバイの町はある化け物が国境の峠に出没するために他国との行き来が途絶えて難儀するようになりました。それがスフインクスという怪物で、身体はライオン、首から上は女でありました。それが峠に現れては通りがかりの人間を差し止め、謎をかけて、謎が解けなければ殺してしまうというわけです。誰も解けないで、みな殺されてしまいました。ところがオイデポスは解いてしまったのです。スフインクスは尋ねました。「朝には四つ足、昼には二本足、夕方には三本足となって歩くものは何だ」オイデポスは答えました。「それは人間だ。人間は子供の時はよつんばいで歩き、大きくなれば二本足で立って歩く。そして年寄れば杖をついて三本足で歩く」スフインクスは謎をとかれたのを恥じて身をなげて死にました。
テーバイの人々は喜んで、彼を英雄として迎え、帰っては来ないライオス王にかえて、オイデポスを彼らの王とし、女王イオカステを妻として娶らせました。彼女はライオス王の妻だった人、つまりオイデポスの母だったのです。知らずして彼は母を妻としてしまいました。
そしてこのことはずっと後になって、うち続く疫病と飢饉の原因は何かと神の告げを求めたとき、すべて明白になってしまったのです。オイデポスはもう何も見たくないと己の目をえぐりもう何も聞きたくないと己の耳を突いて、テーバイの地をさまよいました。悲惨な放浪の果てにその生涯を終えたオイデポスに最後までつき従ったのは彼の娘であったということです。
父を殺し母を妻とするという恐ろしい運命を背負ったのはオイデポス個人ですが、生まれ、成長し、そして老い,死ぬというのは万人共通に背負っている運命でした。自分の運命を知らされてもがき苦しんだオイデポスは万人共通の避けがたい運命をも見通すことができました。しかし、彼は知っていながらも、その運命からは逃れられませんでした。逃げようともがいても逃れられない運命を背負って、いのち終わるその日まで苦しみ悶えねばなりませんでした。人間であること、それは悲劇である。人間の苦悩は避けがたい運命であるということなのでしょう。半分人間、半分けもののスフインクスの姿そのものが人間とは何かという謎だったのです。(続く) |