4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)
宗教を知る上で教えられる法話に出会いました。それはインターネト世界で公開されている岡西法英師の法話原稿です。 田畑が勝手に修正(文責は田畑)し、三回にわたって紹介します。
「人間、後生が一大事、人間は生き物、苦悩の生き物」(2、前回より続く)
運命を知る知恵はあっても、逃れる知恵は持たないのが人間であること。人間の知恵は中途半端なものでしかないこと。それこそが苦脳のもとだったということでしょう。
人間は何故生まれ老い病み死ぬのか、そしてそれに苦しまねばならぬのか。神に対する反逆への罰だと、旧約聖書は言います。避けがたい運命であると、ギリシャ神話は教えます。では、仏法は何と説いているのでしょうか。釈尊は、自分が生き物であることに対する迷いである、ありのままに事実をみよ、本当の智慧の眼を開けとお説きになりました。 「世の中には三つの誤った考え方がある。(1)ある人は、全ては神の意志によるという。(2)またある人は、すべては生まれる前から決まった運命であるという。(3)またある人は原因も結果もなく、すべては偶然であるという。これらの考えは誤りである。人間が努力する意味を見失わせるからである。どのようなものの見方をし、考え方をし、言い方をし、やり方をするか。どんな生き方をするか、それが問題なのである。勤め励んで、悔いのない精一杯の生きかたをするところに、生きることの尊さがあるのだ」ということを説いておられます。
旧約聖書とギリシャ神話と仏法と、三者三様のようですが共通点もあります。人間であることが如何に厄介なことであるかということ、そしてそれは結局人間が中途半端な知恵の持ち主であるからだということです。その中途半端な知恵を転換して、本当の智慧を開こう、人間であることに光あらしめようというのが仏法だったのです。
人間は生き物です。そして自分が生き物であることを持て余して悩む生き物です。生き物であることは、生まれ、老い、病み、死ぬこと。しかし人間は、その老いを悲しみ、病を憎み、死を恐れ、別れを嘆かずにはいられません。つまりは、自分が生き物であるそのことを呪わずにはいられない変な生き物なのです。
どんなに幸せな人も未来に不安のない人はいません。先のことはどうなるかわかりません。そしてその不安は必ず当たります。現実となるのです。若かった者は必ず老いる。健やかだったものも衰え、病む。そして必ず全てを失い、全てと別れる時が来る。死ぬのです。どんな幸福も、初めから、やがては失うと決まった幸福でしかありません。どれほどの幸運な人生も苦悩の人生であることには変わりはなかったのです。
人間こそ大宇宙の珠玉
「人身受け難し。今すでに受く。仏法聞き難し。今すでに聞く。この身、今生に向かって度せずんば、さらに何れの生に向かってかこの身を度せん」どんな聖典にも最初の方に出ている『礼讃文』のことばです。
人間に生まれたことほど大きな幸せはなかった。そしてその人間に生まれたことの不思議さ尊さに気づかないわたくしに、気づかせて下さる仏法があった。それを聞くことができたことは驚くべき幸運である。この一生のうちに迷いを越えて、不滅の真実に遇わなかったら、何時、何に生まれたときに真実に出遇おうというのか。こんな意味だろうと思います。
人間はいのちに苦悩する生き物なのです。しかし、いのちに苦悩する人間は、ただの生き物ではありません。いのちを知る生き物、いのちを知るいのちなのです。いのちを知るからこそ悩む生き物なのです。生まれようと思って生まれてきたいのちじゃない。だから老いようと思わないのに老いていく。病を願うことなどないのに病む、逃げようとして逃げられないのが死です。我がいのちでありながら、我が意のままにならないのがこのいのちですね。しかし、一人一人の自分の命は短いけれど、長い長い大宇宙の歴史の中に不思議にも誕生した地球上の生命の歴史、重ねられてきた数知れぬいのちの営み、そのいのちの歴史を今ここに引き継いで生きている重い存在です。
いのちを知るいのちである人間ひとり一人、それは大宇宙が生んだまなこ、大宇宙に開いた耳、大宇宙に生じたこころ、大宇宙に芽生えた知恵です。まさしく一人一人の人間こそ大宇宙の輝く宝石であり、地球上の生物三千万種類の中に誕生したいのちの中の花ではないでしょうか。
考えてみれば、人間に生まれたということほどすごいことはなかったのです。その人間どうしの間で人と自分を比べて、小さな違いを見つけては上だ下だとこだわることほど愚かなことはなかったのではないでしょうか。お互いが人間に生まれ合わせたことほど、驚くべきことがありましょうか。
老病死に苦悩することは誰もが経験します。一方、限りあるいのちの中に限りない輝きを見いだし、自他のいのちを輝かす道を見いだすことは、先人の深い智慧に学ばなければできないことです。その意味では私たちの持ち前の知恵は、中途半端な知恵です。いのちに悩むことはできても安らぎ喜ぶことのできない智恵です。他人は見えても自分は見えない智恵、いや自分さえも見えない故に他人も本当は見えていないおろそかな智恵でしかありません。
本当の智慧、あらゆるいのちを輝かす智慧、それが自己との果てしない苦闘の末、釈尊が体得された「さとり」でした。
いのち故の苦悩を越えて、いやいのち故の苦悩を通して、いのちの限りない輝きを見いだすことこそ仏法のテーマでした。そして人間に生まれた以上、誰でもが背負っている宿題でもあったのです。
苦しみ悩みから逃げてはならなかったのです。苦しみ悩みから逃げることは、生き物であること、人間であることから逃げることでした。喜びやすらぎの原料を捨てることだったのです。幸せであろうとして、私はますます不幸のなかへ逃げ込んでいこうとしていたのです。「占いやまじないは人を不幸にする。近づいてはならない」と教えられてきた意味がはっきりわかったような気がします。
立って歩くこと、火を使うこと道具を作ることは、確かに人間の特徴に違いありませんが、それはただ動物として生きるための技術に過ぎないと言えるかも知れません。しかしことばを持つようになった。誕生と死を知った。聞いて考えるようになった。これは他の生き物と決定的に違う生き物が現れたということです。
言葉は単に人間がつかう道具や手段ではありません。確かに意思伝達の手段として、ものに名をつけ、言葉を使うということがあります。しかし一面、親から言葉によって名乗られ、語りかけられ、やがて言葉に目覚めて人間になってきたということがあります。言葉は人間を呼び覚ますもの、人間を人間にするものであるという一面があります。
仏法は釈尊の覚りが言葉になったもの、わたくしたちを呼び覚まして人間であることの意味に目覚めさせるものだということだったと思うのです。
言葉によっていのちに目覚めた人間は過去・未来・現在という時の観念を持ちました。そしてそこに現在を作り上げた過去、現在が作ろうとしている未来という因果関係を見て、現在の生きかたを考えるようになりました。過去を振り返り、未来を想像しながら現在の生き方を選ぶのが人間だということです。(つづく) |