5月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)
インターネト世界で公開されている岡西法英師の法話は仏教を知る上で教えられる所大です。
「人間、後生が一大事、人間は生き物、苦悩の生き物」(3、前回の続き、今回で終わりです。)
人生は不可解
記憶喪失になった人を題材にしたドラマを見ていて気づいたことがあります。過去を失ったら、現在をも見失う。現在の中身が空になる。現在の意味がわからなくなる。「私は何者。ここはどこ。何故私はここに。これから何をするはずだったのやら。これからどうして、何のために私は生きるのか」と、向かうべき未来も失ってしまいます。過去とは現在を構成している内容であり、未来は現在がまさにそこに向かおうとしている現在の方向のことだということです。「過去未来現在」という言葉が経典に出てきます。「過去を内容とし、未来に向かう現在」と いう見方が示されているのではないかと思われます。
しかし、もう少し踏み込んで考えますと、私たちは過去の全てを知っているわけではありませんし、おぼえているわけでもありません。そもそも見損ないや聞き違い、思い違いをため込んできただけかも知れません。また、おぼえていることを全て思い出すわけでもありません。ですから、私たちが現在と思っているものも案外あいまいで不確かなものだということになります。
そして、未来はどうなるかわかりませんが、死ぬということだけは確かです。だからといって死ぬために生きているのではありません。未来のために現在があるのではありません。明日のために今日があるのではありませんね。老後のために青春があるのではなく、大人になるために子どもがいるわけではないのです。かけがえのない今日を生きるのです。明日はどうあろうと悔いることのない、輝ける今日でなくてはならなかったわけです。今日を明日のための手段にしてはなりませんね。今日そのものが尊い、かけがえがないいのちの時なのです。
「死んだらおしまい、何も残らない」「人は死ねばごみになる」こんなことを言う人があります。「死んでも魂は残る」という人がいるものですから、それに対する反発なのでしょうか。或いは、死というものを憎むあまりの嘆きの言葉でしょうか。考えてみれば、死んでも魂が残るというのも、ずいぶんこだわった言い方ですね。よっぽど、死というものを素直に受け入れられないのでしょう。どちらも、死とういう避けがたい現実に対する拒絶反応ではないでしょうか。
「死」というものが何か実体としてあるわけではありません。「死の世界」というものがあるのでもありません。生きていたものが、もはや生きていなくなっただけのことです。生まれてきた。生きているということが、不思議なこと、全く特別のことであって、生まれてこないこと、生きていたものもやがては死んでしまっていなくなることは、何の不思議もない当然のことです。
生きているためには、数知れないほどの条件要素が揃っていなければなりませんが。死ぬのには、何の造作も要りません。コンピューター、作るは困難こわすは簡単、猿でもできる、熊でもできる、大事にしててもそのうち壊れる。人間のいのちもそうですね。
月にも火星にもそして太陽系のどの惑星にも、あるいは宇宙に存在する数知れぬ惑星にも、生き物がいなくて当たり前で何の不思議もないことです。むしろ、この地球上にどうして生命が誕生したのか、そしてわずか四十億年ほどの間にどうして三千万種類もの多くの種類ができたのか、どうして人類が登場してきたのかが不思議なのではないでしょうか。そしてこのわたしが人間に生まれてきた。ここにいる。何という不思議でしょうか。わたしが生まれる前には、無限ともいうべき長い長い時間があったわけでしょう。そして、わたしが死んだ後、また永遠の時が流れて行くに違いありません。無限の時間の中にほんのひとときの、一瞬の輝きにも似たいのちなのでありましょう。今生きているということこそ、まばゆいほどの大不思議ではありませんか。無限の時間の中の五十年や百年の寿命は、長いとか短いとかいうべきものではなかったのかも知れません。百年生きても長くはない。十年の寿命も短くはない。与えられたいのちの不思議に目覚めるかどうか、それこそが問題なのではないでしょうか。
「明日は明日の風が吹く」という言葉を聞いた時、今日さえよければというのんきな考えかと思っていましたが、今思うと、「悔いのない今日を精一杯生きよう。それが、明日はどんな風の吹く明日であろうと、明日もまた精一杯の明日にする道だ」という意味だったのですね。
思い違いの山でできたあやふやな現在を、明日はあしたはと、明日を追いかけながら予想ちがいの死に方をするというのでは残念ですね。 でも、そんなあやふやな私がどうやって輝ける今日を生きるなどということができるのでしょうか。難問です。 「人生やり直しはきかないが見直しはできる」といった人があります。過去というものはもう固まってしまったものと思いがちですが、「子を持って知る親の恩」ということばがあるように、その時はわからなかったが、現在に至ってはじめて見えてくる過去の事実の意味というものがあると思います。過去を丁寧に掘り起こすことで現在が違ったものとして受け止められてくる。今あることの尊さということはそういうことではないかと思います。
曇鸞という高僧が「蝉やひぐらしは春も秋も知らない。この虫がどうして夏を知っているはずがあろう」ということを仰っています。蝉は夏の盛りを生きながら夏ということを知りません。春を知り、秋を知る人間は、まだ鳴かぬ先からやがて蝉が鳴きだすことを知っています。しきりに鳴いているさなかにも鳴き声がもうすぐやんでしまうことを見通しています。蝉の命のはかなさを知っています。物心がついてから意識を失うまでの現世しか知らない私。しかも短い人生の中のわずかな経験と知識で、見落とし聞き間違いだらけのものさしでしか自分の人生を受け取っていない私。生まれる前も、死んだ後も見ることのできない私は、実は自分の人生の意味もわかるはずがないのかも知れません。
本当にその意味を知るのは、久遠のいにしえ以来のあらゆるいのちの歴史、目には見えない迷いと苦悩の果てしない過去を知り通し、このいのちの帰する先をも見通したもう如来さまの智慧の眼より他ないのでありましょう。
人間であることの意味
幸いなことに、私たちはその如来の智慧を教えとして聞くことができます。如来がお知りになるように知ることはできようはずもありませんが、この私にかけられた如来の底無しの慈悲、果てしない願いを聞かせていただくとき、分かった知ったというのではなく、我が思いを越えた重く尊いいのちが広大無辺なるものの中に確かに抱かれているとうなづかせて頂くのです。
道元禅師の書かれた書物から、こんなことを教わりました。「 海の真ん中へ出てみると、海はただ丸く見える。だが、海が丸いわけではない。我々の目の届く範囲がただ丸く見えているだけである。その丸く見えているさらに向こうに海は果てしなく広がっていると知らなくてはならない。海は大きすぎてその姿は見えないのである。確かなことは、今わたしがその海の中にいるということだけである。」
まさにそのように、仏法は広大過ぎて我々の理解を越えている。われわれの理解したものが仏法だなどと思ってはならない。経験を積んでも積んでも、知識が増えても増えても腹は立つし、欲は深いし、愚痴も多いことは、幾つ何十になっても一向に治らない。そんなおろそかな私の智慧で、そんなさもしい私の心でわかるものは仏法ではない。ちっぽけな私の心にはおさまる筈のない果てしなく大きな真実、そして悲しいわたしが確かにその中にいる。私を抱いていて下さる確かな世界。わからないからといって心配しなくてもよい、納得できなくても疑う必要のない大きなまこと、それが仏法だったということを教わったのです。
人間であることの意味は人間の智慧で明らかになるものではありませんでした。如来のみこころを聞く中に尋ねるべきもの、うなづきよろこぶべきものであったのです。
中途半端な智慧を超えて、如来の悲願の中に、人間であること、今生きてあることの意味を聞き開く、それが「生死出ずべき道」「後生の一大事」であったわけであります。(終わり、文責は田畑) |