6月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)

 この6月に樹心社から「今を輝いて生きるために」(1500円)という題名の本を出版していただきました。これは大分県を主にしたローカル新聞、大分合同新聞の文化欄に平成16年5月より「今を生きる」という題で文章を書かせていただいたものをピックアップして編集したものです。編集は主に樹心社の亀岡邦生社長にお任せして製本してもらいました。
 医学関係の論文は、最先端の研究であったり、新しい知見を示すことを価値あるものとしています。そのためには新しい知見が二つぐらいあると論文は書く意義があると、指導講師が大学時代に言っていました。研究者は常に新しい課題を見つけて、その解明に進んで行く人たちです。その為に、論文になったときは、その内容はもう過去のものという印象が残っていました。実際、最近ある医師から、現代における仏教の“ something new ” ( 何か新しいモノ ) はなんですかと質問された事がありました。
 その質問を受け、私は仏教が普遍性を持つということは、時代、地域、その社会で、何時でも人間の課題に応える事ができるという意味で仏教は “ 普遍性 ” を持っているのです。もしその課題に応える事ができないならば普遍性を失って、過去の遺物になるのです。お釈迦さんの時代から今日まで、時代、社会、地域で人類の要請にこたえる「法」(道理)として機能してきた、そして今後も継続されていくところに普遍性があるのです。そのために人間の課題が次から次に出てきても、その課題に「生死を超える」という方向性で、進むべき方向を示す事に仏法の意義があります、という趣旨の説明をしたことでした。
 人類の種々の課題にどう答えるかが、我われの一番の関心事ですが、仏教は直接に課題に「救い」を教えるのではなく、仏の国( 涅槃、そしてそのはたらきの場・浄土 )に生まれさせることで救いを実現していこうとします。人間の生老病死の四苦の種々の課題は、縁次第で何でも起こってきます(「一の矢」ということができる)。その問題を起こらないようにするとか、起こった後にその課題をすぐ、人間的発想で問題を解決する、という意味での救いは宗教の救いではないのです。
 現代日本社会(一般の人やマスメディアの関係者)ではそれらの課題の直接の救いを宗教に求める行動を宗教と思っている傾向がありますが、それは非常に浅い表相的な宗教です。それは宗教という名を使わない方がよいのではと思われるくらいです(法律的には、ある宗教法人という条件を満たせば、法律的に宗教法人と認可されるようですから)。
 公的メディアのNHKの放送で、「『この山は霊験あらたかで、夫婦円満のご利益がある』と信仰を集めています」、「『この神社は何何のご利益がある』と信仰されています」、というたぐいの放送をよく聞くのです。そう目くじらを立てることは無いのではないか、と言われそうですが、宗教とは「自分が一番大事にしている(宗)ところ、基本にしている教え(教)という意味です。目くじらを立てるなというのは、現代人の多くは私を含めて理性知性を拠り所とする発想で、宗教をも時には利用して理性知性で考えて自分の「思い」を実現する事が人間の幸福だと思っているからです。
 その人にとっての宗教は「理知分別の思考」です。そして多く人は “ 金儲けと仕事 ” 、そして “ 健康で長生き ” を追い求める生き方を一番の関心事とするものです。そのために宗教施設や行事を観光の対象や美術品や過去の遺物ぐらいに考えて好奇心の対象や遊びごとの対象とするのです。
 仏教の救いは「二の矢を受けない」といわれますが、医療の世界でいうと、病気になる(一の矢)ことで、苦痛を味わい、病気(がんや老化現象)は嫌だという思いで精神的に生きる意欲をそがれる(二の矢)、ということで二重に苦悩するのです。病気の苦痛はできるだけ医療で対応(治療および緩和ケア)していく、その上で病を縁として生きていることをあらためて考え直す機会にして、生きていることの「有り難さ」や病を縁として身体を気をつけて天寿を全うすることに励む仏の智慧の方向性を見い出すなど、いわば世間的な都合の悪いものも転じて善になす、正しい方向(仏の智慧に順じた、道理にかなった)への受け取りができるものです。浄土とは「仏の智慧のはたらきの場」ということができます。浄土を感得する時、結果として転悪成善の働きを受けるのです。
 浄土の教え「念仏する者を浄土に迎え取る」とは念仏するとき、仏のはたらきの世界を感得する、「憶念」が意識の中に起こります。念仏すると「念持」、思いが持続するのです。念仏するとき、忘れるのを防ぎます(不忘)。それは仏のはたらきの場に私を留めるのです。物理的、地理的な場所ではないのですが、仏の智慧のはたらきを感じる、感得する「場」ということができます。妙好人、浅原才一は自問自答して、「浄土はどこか、ここが浄土の南無阿弥陀仏」という言葉を残しています。確かに浄土はこの世を越えた世界(次元を異にしたという意味)でしょうが、浄土の働きを感得するのはこの世なのです。
 「あの世なんて信じられない」、「浄土なんてそんな世界があるはずがない」、「訳の分からない南無阿弥陀仏」という発言をよく聞きます。私も仏法に出遇うまではそう思っていましたし、仏法を時代遅れのものと思って、できるだけ関わらないようにしていました。
 どういう縁のめぐり合わせか仏教にご縁ができて(宿善開発して善知識に遇う)、仏教に育てられて、仏法に触れる歩みをしていく時、仏法は決して古くならないと思うようになりました。「法」はものの道理を説いてくれているのです。「法」は古い、新しいはないのです。ものの道理ですから普遍性があるのです。その「法」は私の立場、理知分別の立場を批判し続けるはたらきです。私の立場を批判するのですが、批判されて嫌になるというよりは執われからの解放に導かれるのです。そして心は自由自在に明るくなるのです。
 私が仏の働きを感じる場は、仏法の勉強をしている時、法話を聞いている時、聞法の仲間と仏法を話題に讃嘆している時、勤行している時、仏教の本を読んでいる時、念仏している時、などなどです。
 仏のはたらきは結果として、私が仏法を無視して自分の思いを優先したいという根性の私の実体を照らし出します。私の煩悩に振り回されて迷っている姿に気付かせます。私の恩知らずの事実を知らせてくれます。仏法が分かるのではなく、照らされた私の相(すがた)がますます明らかになるのです。
 改めて、浄土はどこか?
 我われが旅先から,帰途に就く時、帰えりの乗り物の中で大分、宇佐の方言が聞こえてくる時、見慣れた風景を目にするようになった時、自宅には帰り着いていないのですが、心は帰ったような気になります。

 親鸞聖人の和讃(帖外和讃、正式には親鸞の著作か不明、東西本願寺の聖典に掲載なし)

 「超世の悲願聞きしより 我等生死の凡夫かは 有漏の穢身は変わらねど 心は浄土に遊ぶなり」

 私自身の生身はまだ自宅に帰り着いていないけれど、心はすでに目的地を感得しているのです。この度の私の文章を読み直してみて、不十分ですが、仏のはたらきの一端を感じ取っていただければよいが、と思った次第です。

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