7月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)

 「長生きしたいということ」(1)
 病気の人が「できるだけ長く生きていたい」ということがよくある。今の医学知識、技術でできるだけ延命してもらうのはよいことでしょう。でも、どこまで長生きすれば満足に導かれるであろうか。長生きしても不快で不自由な生活で寿命を延ばしても…。 何もしなければ、あと六か月間の生命として、かなりは自宅で生活できるであろう。一方入院して治療を受けながら、不快の思いをしながら八か月に延ばすのとしたら、自分にとってはどちらがよいだろうか。最後の時間の過ごし方を考えるとき、生活の質を考えたらどうだろうか。今までの医学、医療は量を追いかけて、長く生きたことが命を尊重したということにしてきた。現在もその傾向の思考が医療人に多い。
 多くの人は「できるだけ長生きをしたい」と言うのです。でも、出来るだけ長く生きたいという我々の思考は、どこまで行っても満足はないように思われます。これはどうしてかというと、私たちの理性知性は、今がよくても十分に充足(いつ死んでもよい、いつまで長生きしてもいい、と言えるとき十分に充足したということになる)にならずに、「長く生きたら、もっといいことがあるのではないか」と、未来に何かを追い求めるものがあるのです。それはどこに原因があるかというと、私たちの理知分別は、今あることを当たり前にして、もう少しよいことないかと、もう少しよいことが起こることを期待して、長生きしたい。この私たちの心根を仏の智慧の光で照らされてみると、私たちの心根は、「不足・欠乏・困窮」にいるのではないですか、と教えるのです。英語の「I want ……、のwant」の名詞での意味にそういう意味が示されています。
 人間の意識のありさまを、地獄、餓鬼 畜生、修羅、人間、天と言って、私たちの心のあり様を仏教では六道を流転していると言っています。 不足、欠乏、困窮というのは「餓鬼」に相当するのです。餓鬼と言うのは、小さい子供がおもちゃやゲーム機がほしいと駄々をこねる様を「餓鬼」といいます。
 私がかって病院の管理者をしていたとき。私の上に経営者の町長がおりました。私の下には職員がおり、私は中間管理職です。私が町長に「MRIと言う機械が二億円するのですが,買っていただけませんか。MRIがあるといろんな検査ができ、いい医療ができるのですよ」、と、「欲しい、欲しい」と私が言ったとします。そうしますと上司である町長は、財政が苦しいのでい出せないと言う。そこでわたしが県に行って補助金はないかと陳情すると一億の補助金が何とか入りそうだ知恵を出してくれた。そこで私は町長さんに「県の方が一億補助してくれそうです。残りを出してください」と言うわけです。そのために作戦を練るわけです。町長さんや議員さんにMRIを使っている先進地見学をしてもらい見てもらうのです。素晴らしさの話を先方にしてもらうのです。
 「欲しい、欲しい」と言う私を町長はなんというかというと「この餓鬼は」と言っているかもしれません。一方、よい返事をしてくれない町長を私は「こん畜生」と思ったかもしれません。相手を餓鬼と言ったときには、自分が餓鬼なのです。自分が「こん畜生」と言った時には、自分が畜生なのです。何故かと言うと、仏仏相念と言って、仏のレベルに近い人は仏さんのことが分かるのです。餓鬼のレベルのものは餓鬼のことが分かる、畜生のレベルのものは畜生のことが分かる。自分と同じレベルが分かるのです。
 「できるだけ長生きしたい」の心根は餓鬼性があるからでしょう、どこまで行っても満足がないのです。九十五歳のおじいちゃんに、曾孫さんが「おじいちゃんあと五年は生きて、百歳までは生きてね」と言った。 小さい子供にとっては百歳と言うのは十分生きたと言う感覚でしょう。そうしたら当事者の九十五歳のおじいちゃんは、「たった五年か」と言ったそうです。どこまで行っても満足と言うことはないのです。こういうあり方をしている私たちを、大きな世界に目覚めた者は、痛ましく、悲しく見えるわけです。
 私たちの分別の迷いは、過去のどこかに生まれて、今日があり、今があり、未来のどこかで死ぬ、そこで死ぬまでの時間をできるだけ延ばしたいという。 私たちの生と死を分けて考える発想(分段生死)を迷いの考え方だと仏教はいます。
 我々の発想は智慧がない、痛ましい、悲しいという思いから、なんとか大きな世界の智慧に目覚めてほしい、という願いを持つようになっている。これを本願(選択本願)と言うのです。その本願は南無阿弥陀仏という名号になって智慧ある存在になって欲しいとはたらきかけてくれているのです。南無阿弥陀仏と念仏する時、私と仏とは一体になる(今、無量寿に出遇う)ということです。しかし、一般の人たちは、本願、南無阿弥陀仏、それは何に? わけがわからんというのです。
 一歩前を歩く、よき師、よき友は、私に先立って本願の心に触れて、その素晴らしさに感動された先輩です。一歩前を歩くよき師、友が、諸仏称名と言って、お念仏を褒め称えるのです。この名前(名号)はすばらしい、この名前(名号)である本願をいただいて救われたと喜ばれるのです。この念仏するよき師、友の背後には、親鸞聖人の讃える七高僧が連綿と仏の心を伝えてくれていたのです。その教えに少しずつ育てられるのです。そして今まで理性知性が全てだと思っていたのが、もう少し大きなもの見方、理性知性を超える世界を知らされるのです。
 私たちの理性知性では、理性知性を超えた世界があるとは考えられない。私たちが考えていることが全てだと思っています。理性知性を超えた仏の悟り、目覚めの世界を知らされると、自分のよって立つ理知の発想の問題点、煩悩による汚染を気付かされるでしょう。自我意識を超えた世界が分かってくると、自分は愚鈍の身であり。迷いを繰り返していたということが分かってくる。迷いをくりかえしていたということは、過去に生まれて、今、今日ここにいて、未来に死がある(分段生死)、というように考えていたことが、私の理性知性で言ったらどこにも間違いはない、しかし仏教の視点が見えてくると、私たちが生きていているということが、当たり前ではなく、有る事かたし、死ぬのは当然、生きていることはまれなことだということが分かってくる。現代の生物学の理解とも整合性が会う。具体的には六十兆個の細胞がある。そのうちの二百分の一が毎日入れ替わっている。
 宇宙の中の物事は、そのまま放っておいたら自然に壊れていくわけですから、私たちは命を維持するために、壊れる前に壊して、それを再合成して自然に壊れるのを防いでいるのです。ほおっておいたら壊れる、死ぬのが当然なのです。死ぬと言うのは、いろんな因や縁のひとつが欠けたらゼロのなると言うあり方です。それが私たちの身体全体です。壊れる前に壊して再合成して私たちの体を維持している。という形で私たちの命は維持されている。赤血球と言う赤い血があります。これには寿命が百二十日で四ケ月たったら全部入れ替わっている。壊れる前に壊して再合成して、一定の量を保っているのです。生きているは死と生のあやういバランスの上にたまたま命が維持されている(生死が混在)ということがわかる。仏教では一刹那毎に生滅を繰り返していると縁起の理法で示している。
 一刹那を一日に延ばして考えると、昨日の夜、昨日の私は死んだのです。今日の朝、今日を初体験する私が生まれたのです。今日の夜、今日を初体験した私は死ぬ。明日、目が覚めたら、また新しい命が始まっていく。一刹那、一日の単位で生命は完結していることでもあるのです。(続く)

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