8月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)

 「長生きしたいということ」(2)
 なんでこんなことを言うかと言いますと、物事を大事にするか、大事にしなかの基準が、カントという哲学者が基準を教えてくれています。それは、目的とかお客さんみたいな扱いの時は、これは尊ばれているということです。目的を達成するための手段・方法・道具の位置にある時には、値段があるという。値段があるというのは、一億円の価値がある、一円の価値があるということで、価値があったり無かったり相対的になるということです。
 手段・方法・道具の位置で扱った時には、目的やお客さんみたいに扱われるときに比べて格段に尊重されていないと言うことになります。私たちが腹を立てる時は、物扱いされた、人間扱いされなかった、という時です。それは手段・方法・道具の位置で扱われたということは、あまり大事な対応をされなかったということになるからです。
 「ちょっとでも長生きしたい」というのは、「朝に教えを聞かば、夕べに死すとも可なり」と言うような教えに出会ってないということと、生きている時間を長くしたいと言うのは、「今」が満足ではなく、「今」に不足、欠乏、不満足を根に持っているものだから、ちょっとでも長生きして量の多さを求めようとしていると思われます。その願いの背後に、未来に何かいいことがありそうだというように期待の思いがあるからです。
 それが、一日一日区切りが出てくると、一日一日で完結するようになるのです。明るい未来を目的としていた時には、今日は明日のための準備の位置になります。準備の位置にあるということは、目的みたいに扱われなかったことになります。その結果、今日一日が相対的に軽い扱いの取り組みになる可能性があるということです。今日を目的であるような対応の一日にした時には、今日を大事にしたということになります。それが明日のために準備だ、明日のための手段だということになったら、「結果として今日は大事に扱われていないという受け取りになる可能性があります」とカントは教えてくれているのです。
 それと今日で完結するということがあると(明日はない可能性が高い)、今日、精一杯生きたと言う世界が起こってくる。今日、一日で完結ですから、そうすると今日精一杯生きるということが実のあるものになるのです。(信心とは死ぬことを知ることだ、本当に知れば 悔いなきよう悔いなきよう生きようと体が勝手に動き出す)
 今日精一杯生きると言っても、それが明日のために準備のための今日なのだということになったら、「明日こそ仕合せになるぞ、明日こそ仕合せになるぞ」と死ぬまで仕合せになる準備ばかりで人生を終わってしまう。これが多くの現代人の感覚です。だから区切りをつけて今日が目的であるということ、過去に生まれて未来に死ぬ(分段生死)ということではなくて、今日一日で、生きると死ぬが混在して完結しているのだと言う、今日一日になっていくときに、今日精一杯生きていくということになるでしょう。
 「死刑囚と無期懲役囚の心理」という作家、加賀乙彦(精神科医)の研究で、現象としてそういうことを示唆する結果が報告されているのです。無期懲役の人は、死ぬまで大丈夫ということで、生きる屍のように認知症様の生き方になっている。一方死刑囚の人は、明日の朝、死刑が執行されるかもしれないということで、残された日は一日しかない、残された一日をどう使うかで躁鬱状態の躁の状態になると言う。
 念仏の生活、智慧をいただく生き方、智慧の具体的なはたらきとして一日一日を精一杯生き切っていこうという区切りをつけしめる生活に導かれるでしょう。念仏によって今日一日を目的の如く大事にすると同時にそうせしめている本願の教え、南無阿弥陀仏は無量光と無量寿です。無量光は智慧です。無量寿は永遠の世界です。無量と言う圧倒的に大きな世界,はかることを超えた大きな世界、ここで私たちが本願に出遇って、南無阿弥陀仏の心を受け取れた時に、歎異抄の一章「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり」ということは、今、南無阿弥陀仏と念仏するとき、今に永遠を生きる世界を、今の一瞬に永遠に生きる命を賜る。
 それはどういうことかというと、理性知性で考えていたことが本当に小さいものであったな、愚かであった(愚鈍の身)なということが分かってきた、それを教えせしめたところの無量寿、無量光の圧倒的に大きな世界に驚かざるを得ないのです。自分の理性知性が一番頼りになるものだと思っていたものが、「愚か」と知らされ、小さな世界に振り回されていることに気づいたら、それを教えせしめている、気づかせしめたところの悟り、目覚めの世界、すなわち南無阿弥陀仏によって自分の思いを百八十度くるりと転回され、「そうだったのか」と呼びさまされ、南無阿弥陀仏と念仏申さんとする心の起こった時(呼び戻される)、摂取不捨の利益にあずけしめたもうなり、驚いて念仏する心が「一心」なのだと言う。一心だから混じりけがないのです。あれがいいとか、これがいいとか分別で考えている時、南無阿弥陀仏もよさそうだ、少し南無阿弥陀仏を練習してみようかと言う時には、分別がしっかり自分というところ(立場)を確保している。いいとこ取りをしようとしている、これもよさそう、これもよさそうだから……と、煩悩がにえたぎっているのです。よいところだけつまみ食いしているから一心ではないのです。それが自分は愚かだ、小さいと言うことが身に染みて分かったら、まいった、仏の教えの如く念仏して生きていこうと自然になる。
 本願は「念仏する者を浄土に迎えとるぞ(必ず救う、まかせよ)」という。安田理深という先生は、「仏教と言うのは、私たちを直接救うのではないのだ、浄土という国に生まれさせて救うのだ。」と言われた。私たちは困ったことから助かると言うのは、ないよりあった方がいい、だけど本当の宗教と言うのは、無病息災 家内安全 商売繁盛という願い事という人間の欲を満たすものではないのです。願っている所の迷いを翻(ひるがえ)させるという、浄土に生まれさせることにおいて、私たちを救うのです。浄土というのは仏さんの世界で、私たちの世界を包み込んだ世界だと言ったらいいでしょう。しかし私どもが小さな殻の中で、そんなものは信じられないと言って、損得、勝ち負け、出来るだけ長生きさせてくださいと言っているのです。どこまで行ったら満足かと言ったら、これはエンドレスなのです。それが私の考えで、生きている時間を延ばすのが、長生きだと言う概念にどっぷり染まっているのです。
 「み仏を呼ぶわが声は み仏の我を呼びさますみ声なりけり」(甲斐和理子)
 私たちは生きていることがあたりまえで、その上に何かよいことないかな、というのではなく、私たちは死ぬのが「当たり前」なのです。生きていることが「あること難し」なのです。仏さんの智慧によって目覚めてくると、今日の朝、目が覚めた時に、「今日の命を頂いた南無阿弥陀仏」で一日をスタートさせ、夜、やすむ時に、「私なりに精一杯生きました、南無阿弥陀仏」で死んでいくのです。そういうように一日一日が完結する生活、その一日、一日の足し算が一ケ月になり、一年になり、十年になるのが仏の時間ですよと仏教は教えるのです。
 こういうふうに私たちが本願の念仏を通してこの大きな世界に、目覚めとか悟りの世界に通じるようになると、今まで頼りになると思っていた、理性・知性・分別というものが色あせてきて、信国淳先生は「愚鈍の身」と言われ、「仏智に照らされて初めて、愚鈍の身を知らされる」と言われています。仏の智慧の世界に出会ったものは、びっくりするわけです。その結果「一心に帰命します」と展開するのです。その結果生きている時間の長さには囚われなく、「仏にお任せ」を生きる存在に転じられるでしょう。

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