10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)
現代医療におけるビハーラ運動@ :自照同人(自照社 2013年 第75号)
癌の病名を告知しなかった時代
ビハーラという言葉に出遇ったのは私が四十前後の頃でした。国立中津病院に外科の責任者として赴任したときでした。大学で臨床の経験を積んできましたが、大学にはいつも頼りになる先輩がいました。地方の国立病院とはいえ、自分の故郷ということもあり、責任の重さと外科医として自立しなければならないという立場をひしひしと感じてのスタートでした。
今まで学び経験したことを繰り返しながら、与えられたスタッフとチームを組んで新しい経験と学びの場であることを思いながら仕事に取り組みました。外科の仕事は悪性腫瘍(いわゆる癌)を扱うことが多く、早期癌の患者は手術でほぼ治癒させることができるのですが、進行癌の患者の4割は、治療が手遅れであったり、術後に再発を起こすということがあるのです。
一度手術で自分の手を下した患者はその後の経過も責任が伴います。外科病棟には種々の病状の患者が混在しています。よくなる方向性のある患者は明るく対応することができます。医者冥利に尽きるという感じです。一方よくならないという患者は対応に戸惑いを覚えるのです。当時、まだ癌という病名を患者に告げない時代でした。
日本では平成の時代になってから種々の要因の外圧で患者に正確な病名を告げるように医療界全体が動きだしました。ところが、よくならない悪性腫瘍の患者にどう対応するかということは、個々の医師の人生観・世界観に任されていました。医師になってから先輩方のそういう患者への対応をみながらも、これでよいのだろうかという感じを持たざるをえませんでした。いわゆるパターナリズム(父権主義)で、専門職である医師が全くの素人の患者へ、患者の為によいことをしているのだという意識を感じる世界でした。最初はこんなものだろうかと、初体験で先輩に真似る、学ぶ経験を積み重ねていきましたが、治療できない患者への対応はほとんど先輩医師に学ぶものはなかったように思います。
患者にウソの病名を言うことで、ウソを言い始めている患者へは、その後の対応もウソを上塗りするような対応にならざるをえません。医師主導の医療現場では病名告知について家族の意向を聞くという雰囲気もありませんでした。核心の病名についてウソを言い始めた患者との関係は身体的な対症療法は一生懸命にするのですが、病状説明はウソのごまかしをいうしかありません。そこでの人間としての医師・患者の人間関係は表面的な関係以上には深まりはありませんでした。
仏青活動で生死を超える道を知らされる
治癒に結び結びつく患者への対応は問題を感じることはなかったのですが、治癒にならない患者への対応は経験を積み重ねても悶々とすることの積み重ねでありました。幸いに学生時代から仏教のご縁に恵まれた私には、外科の仕事をしながら仏教の僧伽(サンガ)との接点もあり、仏教、浄土教、浄土真宗の念仏の教えをいただく御同胞、御同行の世界を垣間見た者にとって生死を超える浄土の教えを共有する人間関係が医療の現場でもあるべき方向ではないかと思うのは自然な流れでした。
私自身の歩んできた道を振り返って見ると、自我意識が芽生えて成長する小・中・高校の時代、まさに時代の申し子として世俗のなかにどっぷりとつかり、小賢しく成人となっていきました。仏教などなくても現代科学の発達で人間は幸福な人生を成就できると理想主義の夢を追いかけて大学生活を始めました。実学の最たる医学を学びながら内容の伴わないエリート意識で生きようとしたのですが、精神的・社会的に未熟な私は、ままならない人間関係、学園紛争、経済的問題などで実社会の課題・矛盾に直面して社会の現実の洗礼を受けることになりました。縁あって大学のボランティア活動(医療・法律関係の)をする仏教青年会(仏青)の寮に入寮しました。そこも世俗社会の現実を知らされる場でもありました。しかし、幸いにも仏法の師に巡り合う幸運に恵まれたのでした。
人間というものは周りによって大きく変えられます。とくに精神の遍歴においては時代・文化の雰囲気、人との出遇い、人格の触れあい等が大きな影響を及ぼし人間を成長・成熟せしめるのではないか、ということを実感しています。仏教青年会でまさに同じ釜の飯を食った(本当はいただいた)仲間は、卒業して以後、各自の持ち場で活躍して、青色は青色に、緑色は緑色に輝いています。仏青を支えてくれた先輩方はどこかで仏教の応援団として仕事をする人材の誕生することを願って仏青の活動を長い間、支援してくれて続いているのです。
仏教の生死を超える道に触れた者は、更に仏法を求めて歩きたい、とならざるをえません。念仏の道は一生被教育者としての道でした。それはまさに師の歩まれた道でした。それは親鸞聖人・法然上人そして釈尊に連なる大道でした。埼玉医科大学哲学教授の秋月龍a師の「生死を越える道の仏教と医療は同じ生老病死の四苦の課題に取り組んでいるのです」の文章に触れたとき、目からウロコが落ちたと言うべきか、取り組むべき仕事の方向性を強く知らされました。
病院内で「ビハーラ研究会」を開く
国立中津病院は中津市にあり、浄土真宗の豊前学派の名前もあるように念仏の土徳の残る地域でした。患者が枕もとに仏書を置いていることはよくあることでした。患者の訴えのなかに「死の不安」に類するものを感じることができたのは継続した聞法によって、お育てをいただいていたお蔭でした。後にそれらはスピリチュアル・ペインといわれることになるものだと知ることになりました。
病を患う患者の声を聞いていくなかで、仏教の生死を超える道を患者と共有できたらよいのにという願いを持つようになりました。そのころ(昭和60年代)初めてビハーラという言葉に接したのでした。臨床の現場でうすうす感じていたことへの対応の道がビハーラ活動にあることを感じた私は、院長に相談して病院のなかに「ビハーラ研究会」を早速立ち上げたのです。それは名前だけは勇ましいのですが、国立病院のなかで患者のための仏教講座を開催する為の便宜的な名前でした。
ルーチンの外科の仕事が終わった後、患者の夕食のあとの時間帯に、縁のありそうな患者に声をかけて(後には病院全体へ放送で案内するようにしました)会議室を使って私が厚かましくも仏教のお話をするようにしたのです。今から考えると未消化な仏教の話であったでしょうが、参加してくれる患者は少なくはありませんでした。開催を不定期から定期的にと進めて、知り合いの浄土真宗の僧侶にも加勢をお願いするようしました、全くのボランティア活動として。参加してくれる患者や家族の反応は私の取り組みを励ましてくれるものでした。(続く) |