11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)

 現代医療におけるビハーラ運動(2)自照同人(自照社 2013年 第75−76号)
 癌告知が一般化される中に潜む問題
 ある仏教関係者の手術を担当した後のことです。残念ながら再発して、病状は進み、緩和ケアの必要な患者でした、幸い仏青の後輩の内科医師が担当してくれていて、その医師が「患者は病気がよくなったら、ある仕事を仕上げようと言っているが、このままだと仕事が終わらないままになるから、知的仕事をされている人だし、本当の病名を言って、元気な内にその仕事を完成してもらった方が本人の為になるのではないか」言うのです。家族と相談して本当の病名・病状を伝えることになりました。その後患者は仕事を仕上げて、結果として亡くなった後でしたが、立派な書籍として出版されました。
 その患者へ内科医師から病名告知の後のことです。「本当のことを言いましたからね」との連絡を受けてから、夕方、外科の仕事が終わってから時々うかがっていたので、その患者の病室へ行くことにしました。何の心の準備もなく、病室に入った途端にものすごい衝撃を受けました。それは患者のことではなく、私の方のことです、まさに患者に話しかける「言葉を失った」のです。何とかその場を取り繕いましたが………。
 外科医になり、20年近い経験を持とうとする時、病院での患者との対話は、どんな言葉が患者から発せられようとも、何とか言葉で対応できるという自信みたいなものを持ちはじめていたころでした。あの自信は何であったのか? そうだ、「ウソをウソで塗り固め、患者をごまかす自信だったのではないか」と強く反省させられるものでした。これは私の個人的なことではない。私が受けて来た外科医の教育の問題に留まらず、日本の医療界全体の課題だとすぐに思いました。  昭和から平成になる年に私は国立中津病院から現在の国東市民病院に移動しました。
 平成の時代になって日本の医療界もアメリカ医学の強い影響と日本での人権意識の高まりと医師のいわば責任回避の動機付け(本当の病名を告げてないが為に、後に患者から訴えられた時、医師が裁判で負けるから)で本当の病名を患者に知らせるという流れが一気に進みました。医師側の病名を告げた後の患者のアフタケアの準備が整わないままに告知の流れが進んだのです。アフタケアの準備が出来てからということであれば遅々としてこの方向に進まなかったと思われます。
 良い悪いは別にして医療界に残るパターナリズム(医師が患者をよい方向にはからう)は強いものです。若い医師は患者の心理的な配慮もなく、病名をずばりと告げて患者を不安にさせるといって若い師を批判的にいう先輩医師の声を聞いたことがあります。批判する医師がよいことをしているというと従来と同じパターナリズムでよいというのですからこれも問題を秘めたままです。
 私の前任地に某新聞(全国紙)の文化部の部長をされて、定年後生まれ故郷に帰ってきたという人が居て、ある時、地方新聞にエッセイを書かれていてその題目が「医者の傲慢、坊主の怠慢」でした。医療界は国民の8割以上の死の現場に関わり「死」への対応が十分できているか、十分出来ているという傲慢さにいるのではないか。一方宗教界へは、死後の儀式法事に関わるだけで、生きた人間を相手の取り組みが疎かになっていないか、怠慢ではないかとの問題提起をされる文章を書かれていました。

  市民病院内に「国東ビハーラの会」が立ち上がる
 中津と国東(くにさき)でのビハーラの取り組みの経過を紹介します。中津の国立病院で「ビハーラ研究会」という会を立ち上げ(実質は私、一人です)患者、家族に向けて病院内で夕方仏教講座をはじめました。患者、家族の反応の感触を確かめながら、同時に組織的な取り組みに向けて浄土真宗の僧侶と接触をもち協力体制構築へのお願いを行動に移していました。ところが、大学から勤務地の移動の指示がきました。新しい任地は「仏の里、国東」の公的病院、現在の国東市民病院でした。同じ県内ですが、私には不案内な地域でした。故郷である大分県県北の中津でずっと勤めようと思っていましたが、大学の強い要請があり、仏教の師の助言もあり、縁が熟して移動することにしました。病院内に強力に促進する人がいないと「ビハーラ研究会」の継続は難しいので国立中津病院での取り組みは転勤と同時に中止となりました。
 平成元年、新しい任地で外科部長として仕事を始めました。外科の先輩が院長をしており、五か町村(着任当時は郡立、後に市立へ発展)が運営している公的な病院に慣れながら、外科の仕事とは別のビハーラ関連の活動の組織つくりを企画して、まず病院の中で定期的な仏教講座を開催することを目指しました。大分県国東半島は「仏の里、国東」の観光キャチィフレーズで売り出している地域ですが、公的病院で仏教の取り組みにどういう反応があるか注意を払いながらの準備をしました。
 入院患者に仏教講座の開催にあたっての関心度をアンケート調査しました。入院患者の反応の感触は悪くない、そこで院長、副院長とも相談して院内での仏教講座に理解していただき、計画を進めることになりました。地域の寺院・僧侶を尋ねて回り、地域の地理的事情を知ると同時に仏教講座への協力をお願いしました。その過程で印象的なことは、ある僧侶(当時、病院の所在する町の町会議員)が「田畑先生、よいことを始めてくれますね。私たちはこれまで、死んだ人を相手にしてきたが、仏教はやはり生きた人を相手にする時代ですよね」と励ましてくれたことでした。
 平成2年3月、五か町村内を主に近隣の宗教関係者に趣意書と案内を出し、病院内仏教講座の説明会を開き、講座へのご協力をお願いした。この時、ある禅宗の僧侶がこの会を「国東ビハーラの会」と命名してはと提案していただき、会は動き出しました。平成2年4月より、毎週金曜日の夕方、病院内のある場所(畳の敷かれた部屋)で、国東ビハーラの会主催、病院後援の「仏教講座」が始まりました。

計算的思考より根源的思考の重み
 平成の時代になり、癌の病名告知の動きも日本全体で始まりましたが、人々や医師の関心度は低いものでした。パターナリズムの方が従来の患者・医師関係に慣れた患者や医療関係者には楽で無難かもしれないからです。「医師が良いようにしてあげる」との上からの視点です。医師として身体的な面での専門家ではあるかも知れないが、しかし、人間生命全体を分かっているという傲慢な発想になる危険を孕(はら)んでいたのでした。親が自分の子供に悪いことはしない、「良いようにしてあげる」といった医師の独りよがりな発想をでないものです。
 医師が患者よりも人生経験が豊富でしょうか。医療の専門家ではあっても、人生の経験は未熟であったり、癌という病気を経験することは医師よりも患者の方が先輩になるのではないでしょうか。
 病気で必ず死ぬという現実に直面した患者に医師は医療の身体的な面では対応できても、精神的(心の領域)には対応は難しいでしょう。また対応能力のある医師でも時間的な制約で十分対応できない可能性があります。私の経験で言えば、ほとんどの医師は精神的な面での対応できないでしょう。そういう医療現場の実態があるがために、力量のある宗教者が求められるゆえんであります。病気で悩む患者の全人的な対応を考える時は、いろいろな訴えが混在して表出されるために、医師・看護師だけではなく、多くの職種と一緒にチームを組んで取り組むことが求められるのです。(つづく)

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