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現代医療におけるビハーラ運動(4)最終回 自照同人(自照社2013年第75−76号)

医療が患者個人のスピリチュアルに向き合う時代
 「生活の質」を尊重するとき、その「質」に種々のレベルのあることに注意しなければなりません。生活の快適度、便利さ、効率の良さ、都合のよさなどを尊重することは、科学的な思考の医学・医療で取り組めますが、患者個人のスピリチュアルな課題や実存的(宗教的)な課題が訴えとして表白されたときは、日本の医療関係者はどれほど対応ができているでしょうか(一部の宗教関係の病院を除いて、宗教抜きの医療現場)。
 心の内面の問題は患者個人の私的な問題で、医療現場には相応しくない課題であり、それは私的に対応されるべきものというのが多くの医療者の認識であり、現在も同じ状況が続いてします。国民の約80%の死の場所が病院であるにもかかわらず、実存的、宗教的な対応にまで心配りが必要という認識が医療関係者にはほとんどないのが現実です。
 緩和ケアの必要性が認識されるようになって、はっきりしてきた課題が、スピリチュアル( spiritual )という言葉です。約15年前世界保健機構(WHO)は、その理事会で、健康の定義を、身体的、精神的、社会的の3つの要因に、4番目としてスピリチュアルを加えることを決定しましたが、総会の決定にまではなっていません。
 このスピリチュアルにどう対応するのか、国の審議会記録が公表されています。医療関係者にはなじみのない言葉で、スピリチュアルという要素が健康の定義に入るのは迷惑だと発言している著明な医療関係者の審議会報告もあるぐらいですから。
 スピリチュアルの日本での定義は、窪寺俊之氏(心理学研究者)の「スピリチュアリティとは、人生の危機に直面して生きる拠り所が揺れ動き、あるいは見失われてしまったとき、その危機状況で生きる力や、希望を見つけ出そうとして、自分の外の大きなものに新たな拠り所を求める機能のことであり、また、危機の中で失われた生きる意味や目的を自己の内面に新たに見つけ出そうとする機能のことである」と。またウァルデマール・キッペス氏(カソリック神父)は、「スピリチュアルは五体で体験できる事柄を超越する機能・能力である。スピリチュアルは物事に意味や意義をつけさせるパワーであり、死を含む現実を超える希望である」と定義しています。
 スピリチュアルは辞書には「霊的」と記されていますが、仏教文化は霊という、固定した存在の認識をしない「無我」という縁起の法を目覚めの内容として教えていますから、どう対応するか難しいところです。しかし、マスメディアに登場するスピリチュアルケア・カウンセラーなどの言葉が先行して衆目を集めてしまい、ますます混乱をきたしています。
 この混乱に対して清水哲郎氏(哲学研究者)は整理して、スピリチュアルが指し示しているのは、個人が持つ「世界についての根本了解と根本姿勢の対」が「その人のスピリチュアルなあり方」の中核であると示されています。現実の状況把握とそれに対処する姿勢には種々のレベルがあるわけですが、根本的なレベルがスピリチュアルで関わる領域だということです。
 たとえば、ある人は「この世界はある超越者(「神」と呼びたければ神)によって創られ、その超越者が支配するところだ」と把握しているとします。もし、この把握がその人の生き方を方向づけているとしたら、つまり、その人の世界に臨む根本的な姿勢、人生を生きる基本的姿勢が、たとえば、「超越者に帰依し、その意志を見極めつつ、それに添うように生きよう」ということであれば、その人の前に展開している世界(=超越者が支配する世界)は、スピリチュアルな領域です。
 現在の日本の教育は科学的合理思考を大事にするために、ある有名人が「人間死ねばゴミになる」と発言するような、唯物論的世界観を持っている人が大多数です。その人にとっての世界了解(把握)とそれにどう対処するかがスピリチュアルの領域ということです。
仏教の智慧が個人のスピリチュアルに示すもの
 ある人が、この世界は超越者によって創られたと考え、超越者や、それを取り巻く「霊的な」存在者たちを思い描き、人生のいろいろな事情をその存在者と結び付けて理解しようとしています。そのように思い描いた世界と霊的な存在者たちに対して、その人の真摯な姿勢をとって生きる基盤に結び付かない場合、そしてその思い描きは、その人にしか見えない空想であるならば、その人の思いの世界は、少なくとも、健康の定義で示そうとしている「スピリチュアルなるもの」ではありません。そこで話題になる「霊的な存在者」たち、そしてそれらが跋扈(ばっこ)する領域は、テレビのバラエテイ番組で「スピリチュアル」なものとして話題になるでしょうが、医療や仏教の領域で考えようとしている「スピリチュアル」なものではない、と示してくれています。
 我われが老病死という現実に出会い、その現実をどう受け取り(了解)、どう対処(姿勢)していくかを思考する時、いくら分別で小賢しく考えても、最終的には現実からは逃げることができません。
 それでは仏教の智慧(仏智)はその課題にどう対応することを教えてくれているでしょうか。臨床の現場で、問題になる事柄(スピリチュアル)に応えるモノは仏智が教える。(1)人間として生まれた意味、(2)生きることの意味、生きることで果たす役割、仕事、使命、(3)死んで行くことの安心(仏さまにお任せ)、そして(4)罪悪感からの解放(無条件の救い)、で包容できると思うのです。
 仏の心、本願に触れる歩みにおいて、仏は我われが世間の中で、善悪・損得・勝ち負けに振り回されて迷いを繰り返している事実を見抜き、痛ましく悲しまれて、願いを起こされた。そしてその生死に迷う人間がどうしたら救われるかと、熟慮に熟慮を重ね、我われの小賢しさだけがあり智慧がない、迷いを繰り返している事実に気付かせ、仏智の全てを南無阿弥陀仏という名前に込めて届け、念仏する者を迎え取る浄土の世界を実現したのです。
 仏智に触れる時、我われの分別の思考は翻されて、仏智に順じて生きていこうと思考の180度の転回が起こるのです。小賢しく思い通りに生きていこうとしていた自分の、仏智を無視(顛倒、逆さまになった思考)した思考を懺悔して、仏の教えにしたがって生きていこうと、念仏して生きる存在になるのです。そこでは現実を細分化して把握しようとし、なおかつ管理支配しようという間違った状況把握と対応を思い知らされ、南無阿弥陀仏と念仏に導かれるでしょう。
 老病死の現実に背を向け逃げ回り、一旦、その問題に直面すれば愚痴を言う。そんな愚を仏智で翻されて、この現実は私に何を教えようとして起こっているのか、現実の背後に宿されている意味、物語を受け取っていく深い思考へと導かれるのです。それによって「人間に生まれて良かった。生きてきて良かった」という目覚めの人生を生ききるのです。「現実の言う声に耳を傾ける」仏智の全体的思考へ転回させることなしには、老病死の受容はできないでしょう。
 師は「人生を結論とせず、人生に結論を求めず、人生を往生浄土の縁として生きる。これを浄土真宗という」と教えてくれています。

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