2月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)

過去を振り返って考える時、私は小学校の頃、社会の授業で、「日本は資源の貧しい国で、原材料を輸入して加工して製品を輸出して日本の経済的に豊かになる」と教えられて、心の内に「私は何で日本に生まれたんだ。資源の豊富な国に生まれたらよかったのに」という思いを持った。昭和30年代、日本人の多くが貧しい生活をしていた頃、「家が経済的に豊かだったら、欲しいものが手に入るのに……」、何でこの家に生まれたんだ。思春期、「もう少し格好いい容姿で有れば良かったのに、なぜこんな……」、と自分の現実が受け取れなかった。
 受験勉強の頃、住所が通学時間のかかるところだったので、「何でこんな地域に生まれたんだ」と不満に思った。家が豊かであれば国立でない大学に受験できるのに、何でこの家、この親のもとに生まれたんだ。努力しなくても良い成績はとれる知的能力のある人間に産んでくれたらよかったのに……。自分ひとりの勉強部屋があったら……等など、不満を持ちながらも、世の中のこともよく分からず……、しかし、親の生活、生活姿勢を見ると親にも文句を言えず……。
 大学に入学したら、したらで、温室から外に出された植物のごとく、未経験の都会の生活にビックリ、おどろく中で、心は皆についていけるだろうかと、劣等感・優越感に振り回され、世間知らずで、初体験の都会生活に振り回される。また、全国を吹き荒れた学園紛争に、傍観者であることを許さない現実に出くわして、揺れ動く心で試行錯誤を繰り返す青春時代。 以来、40数年を経過しようとしている。
 そんな中で不思議にも恵まれたことは、よき師、そして仏教(浄土教)の出遇いである。

 広瀬杲(たかし)先生の言葉に次のようなものがある。
「 この世に生まれてきたかぎり 出遇わねばならない たった一人のひとがいる それは自分自身である 」

 仏教の基本の考えに、「縁起の理法」 がある。基本の「因」があり、それが「縁」に触れて、はたらき「業」を引き起こし、その結果、「果」ができる。その果の影響、すなわち「報」が次なるものに及ぶ、ということである。「私」という存在は、時間的、空間的に量(はか)ることを超えた(無量光、無量寿)ものがら(因と縁)と密接な関係性を持って存在している。その事実の「道理」「法」「法則」を表現したものが「縁起の理法」である。
 その基本の応用みたいなものに「身土不二」「依正不二」がある。私の身と、それを取り巻く土(環境など)は切っても切れない密接な関係、「一」の関係である。「一」の関係とは二つに分けられない関係という意味である。依正の「依」は周囲の環境などを示し、「正」は主体という意味で不二(二つに分けられない)、「一」であるという意味です。
 しかし、自我意識の私は私の周囲の状況を別々のことと分けて考え、私が自分の思い通りの生き方をする為には自分の周囲に自分の思いに沿ったものを集めると良いだろうと考えてきた。そして自分の思いに沿った周囲の状況ができたら満足、幸せ感を感じるであろうとも想定していた。自分が幸福であるか、不幸であるかは周囲の状況が決めるという発想でした。皆もそう考えているようなのでこの発想に間違いはないと確信していたのです。この発想で生きているから、実際は自分の周囲の事実を受け取れなかった(境遇に振り回され、負けて、虚しく終わる)ことが何と多かったことか。前に記したものはそのほんの一部です。
 聞法の歩みの中で、「自分と環境はぴったりと一致している」、と度々、お話では聞いてはいたが、現実の実感は自分と周囲の環境は別々なのです。法話の内容と現実の実感はどうして違うのだろう……、現実が受け取れないのです(対象化の思考の故に、避けられないジレンマです)。
 一方、私の身体は現前の事実を引き受けて、黙々と生きてくれているのです。しかし、私の自我意識は自分の思い、感情や、考えを自分だと囚われて、自分の思いと差のある自分の現実に苦悩しているのです。
 縁起の法では自分だと思う、固定したものは無い、「無我」だと教えてくれているのに、縁起の法を全部正確に受けとめて無かったのです。これこそ自分だと思っている私の「意識」、「心」は感覚器官の一つ(註)だというのです。そして縁次第ではこの自我は、どんなにでも変化する在り方をしていると、改めて教えられたのです。対象化ではないがちょっと距離をおいて自分の心の在り様を眺める、できれば念仏して眺めることを教えられます。なぜならば、自分の思いや感情にこれまで振り回されてきたことにやっと思い至ったからです。智慧の世界を教えられても自分の分別で、自分勝手に受けとり、自分流に利用していたのです。自我意識の照らし破られることに頑として抵抗をしていたのでした。
 在家の存在とは「欲」を認めた生活と言われます。出家してない者は、自分の欲と思いを生きることを基本として夢に眠っている(呆けている)存在ということです。自分の欲と思いに適(かな)うものを集めて満足の世界を生きたいと夢を追い求めるのです。今、ここの自分でないものを追い求めていくのです。結果として自分になれないまま、本当の自分に出会えないままに人生を終わるのです。
 夢を追いかけ、自分の周囲を自分の思いに適ったもので満たそうと頑張るのです。世間では夢を追い求めて頑張る姿勢を評価します。しかし、仏教は夢を追い求めて生きることは、どこまで頑張っても「足るを知る世界」に行きつけないと指摘します。そして欲を満たそうとする生き方は、三悪道(地獄・餓鬼・畜生)に堕していくと教えています。いかに時めいても老病死の不安を免れません。老病死につかまれば廃品のように自分を思い、「不幸の完成」となる人生です。空過流転に堕していくのです。仏の目で見れば痛ましい、悲しいことでしょう。
 煩悩具足で、迷いを繰り返す私が「汝、小さな殻を出て、大きな世界を生きよ(南無阿弥陀仏)」との仏の目覚めさせるはたらきに、呼びかけられ、呼びさまされ、仏の智慧の世界へ呼び戻される、その働きの世界が浄土です。浄土を生きる者は、どういう境遇であれ、人生を丁寧に生き、生きる勇気をいただくのです。
 仏教の教えに触れることの無い多くの現代人は、仏教の必要性を感じていません。自分はお浄土に生まれることは別に必要とは思っていません。仏に成る必要もない、私は人間で結構、という人が非常に多くなっていますが、まさしく、その人間であるということはどういうことか、「人間とは何か」が、仏教の根本問題です。実は私達は、仏に成ることがないと本当の私になれない(自分に会えない)、本当の人間になれない(境遇に負けて終わる)、と仏教は教えています。
註:我々は普段、世界をどのように認識しているかといえば、我々はその客体を五感+文脈で認識します。つまり、眼で色(姿・形)を見て、耳で声(言葉)を聞き、鼻で香(匂い)を嗅ぎ、舌で味を感じ、身で触感を感じ、法(道理・文脈、物がら)を意で感じることで、客体を認識しています。ここで眼・耳・鼻・舌・身・意の感覚器官を六根といいます、色・声・香・味・触・法の認識対象を六境といい、六境を認識することを六識という。 六根から入ってきた刺激を、判断・認識するのが阿頼耶識である。
 このように、私という存在は判断・認識する仕組み(固定した我はない、空、無我)です。自我意識で世界をあるがままに正しく認識することは不可能なのです。科学的思考といえども局所的な把握はできても、あるがままの全体をあるがままにみることは無理なのです。

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