3月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2557)

 ガンなどの病名告知を “ telling truth  “という、病気の真実を告げるということです。日本では昭和から平成の時代に変わる頃、患者へ正確に病名を告げるようになりました。私自身はその頃から臨床現場から少し離れた仕事になり、患者へのガンの告知はあまり経験できないままでした。
 患者へ病名を正確に告げるときには、病状説明、予後説明(今後の生存見込みなど)、治療法の説明と選択の可能性などを告げることになります。回復可能な、手術して治癒可能な場合は説明が楽ですが、もう治癒の見込みがない状態での告知は気が非常に重たいものになります。明るい見込みが無いのですから、対話も湿りがちで、暗い現実を共有するしかありません。
 共有するといっても患者は希望がもてない状態を新たに認識せざるを得ないのです。かって従兄弟が49歳で腎臓のガンを患っていた時、種々の治療で効果が出ないとき、「緩和ケアに移った方が良いのではないのか」という趣旨をアドバイスした時、彼が「明るい方向性が見えないということは『いたたまれない』のよ」と漏らした言葉が耳の底に残っています。そんな患者との対話は滞りがちになり、病室訪問も気が重くなり、どういう内容の対話をすればよいのかと気を使うようになり、一段と患者と対面するのを避けたくなります。真実の病名を告げてしまうと患者は決定的に弱い立場にいることを感じるようになるでしょう。対話はやはり平等ということを感じる場がないと進みません。
 先輩医師が闘病記に書いておられましたが、胃がんが見つかり、外科手術を受けて社会復帰されているのですが、患者の立場になり病室でベッドに横たわる身になってみて、医師と患者の立場の隔たりを「丸腰の患者と、二丁拳銃を持った医師が対決している」ような差を感じたと。
 多くの医療関係者にとっての課題が「悪いニュースをどう告げるか」ということです。
 ウソの病名を告げているときは、病名、病状に関してはウソの上塗りをするような会話がなされていました。ビジネスとして患者と医療技術者(医者)としての会話で、治癒できる病気の場合は仕事を進める上ではそんな対話でさしつかえはないでしょう。能率、効率が求められる急性期医療の現場では、医師は忙しくて病気(病人ではなく病気)に対する医療者という関係ではビジネス的な関係を持つしかないでしょう。
 患者の求める医師像もそういう『腕の良い医師』であるのかも知れません。しかし、治癒見込みの無い病気(加齢現象としての変性性疾患、悪性腫瘍の進行した状態、神経難病など)や根本的に治療はできないけれどが、良い管理状態を保ち、病気と付き合いながら生活するしかない疾患(高血圧症、糖尿病、など)を患う患者(病人)では病気という局所の問題と同時に、全人的な、「人間として……」、「人生は……」が問題になってくることが多いのです。極端な例ですが、「病気は良くなったのですが、治療の結果、不自由な生活を余儀なくされた」ということでは困るでしょう。
 医学などの基礎の科学は分析的に思考していくので、物事のからくりの解明には大きな力を発揮します。科学で解明できたことは局所的には正しいことを表現しているでしょうが、大きな俯瞰(ふかん)的な視点では問題があることがあります。高齢者をお世話する職場にいますが、患者の食事の摂取量が課題の人が数人います。食べないと体力が弱り、その結果、死ぬということにもなるから、介護の職員は工夫して食べさせる努力をしてくれます。かって、ある患者家族が患者に「食べないと死んでしまうよ」と大きな声で励まして食べさせている場面に出くわしたことがあります。確かに「食べなければ死ぬ」は事実です。でもそれは局所的な真実です。
 大きな視点で人生を考えると「食べても死ぬんです」、食べるようになってもその先には老・病・死を避けることはできません。そうすると解決すべき問題の視点が変わってくるのでしょう。医師や看護師が病気だけを対象として思考するか、病人の人生を問題として思考するかによって問題点が違ってきます。
 病名告知の時に、暗い、悪い話ばかりでなく、仏教では「人生を味わいなおす」支援をすることができると提示できるのです。ただし意識がしっかりして考えることが出来る人でなければなりませんが。仏教の智慧の受け取りで、患者のQOL(生活・生命の質)の改善が期待できるのです。ある念仏者の言葉に「これからが、これまでを決める」があります。これから出遇う世界によって、これまでの過去が、愚痴や後悔の過去になるか、貴重なご縁としての過去になるかが決まるというのです。
 念仏の徳として、この世でのご利益(現生十種の益の中の一つ)に「転悪成善」があります。本願、南無阿弥陀仏の心に触れることで、仏の教えの「念仏の生活」に転ずるとき、これまでの過去の事柄が、自分にとって都合の悪いこと、恥ずかしいこと、人に言えないこと、失敗、などなど、いろいろあるでしょうが、それらが、私にとって貴重なご縁であった、仏法に出会うためにはなくてはならない貴重なご縁であったと見直されるのです。お経には(註:下記に現代訳を提示)その可能性が明示されています。
 具体的にはガンの末期においても意識がはっきりしていること、聞く耳を持っていること、念仏をほめたたえるよき師、よき友とのご縁がそろうことで、よき師・友の人格性に触れるなかで仏の働きを感得できるようになるでしょう。人生の方向を大きく変えられる(愚痴から、感謝と懺悔へ)可能性のある出遇いです。
 患者は医療の素人であっても、医療者にとっては、先立って人生の老病死を経験する人生の先達(先輩)です。病気に共に取り組む同行として、お互いに学びあい、教え合い、支えあう関係となるのです。ご縁があって人生の一時期を、歩みを共にする友人・知人として、共に生きてゆく仲間なのです。そこには平等に対話が出来る地平が広がるでしょう。
註:観無量寿経の下品下生の部分の現代訳 「 次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさいと勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。」

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