4月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)

 Evidence based Medicine (EBM、客観的な事実に基づく医療)は客観性を大事にして科学的な思考で診察をする医学を示します。医師の独りよがりな治療ではない、普遍性のある治療を実施していくということです。しかし、人間の全体像を客観的なデータで把握できるでしょうか。医学教育を受けて患者さんの身体的な全身管理をする経験を積むと、科学的思考の医学で人間全体を把握できるという傲慢になりやすいのです。
 客観性を持って人間を把握する方向を推し進めることは非常に大事です。しかし、客観性を尊重した科学的思考は白黒の判断ができない灰色の部分、客観的に表現できない心の領域、気持ちや意欲、周囲の雰囲気、未知なる領域などなど、は科学的な思考の中に入れないために人間の全体を把握するには不十分であるとの謙虚さが求められると思います。
 医学の領域でEvidence based Medicine (EBM)を補完するために Narrative based Medicine(NBM),物語に基づく医療が提唱されて10数年が経過しています。患者の人生観、死生観、価値観、病気観などを尊重して患者さんに全人的に対応しようという動向です。2011年に亡くなられた岡部健医師(外科、緩和ケア)の聞き書きが出版されていて教えられるところがたくさんありました。その一部を紹介します。

「看取り先生の遺言」 奥野修司著 文藝春秋 2013年  岡部健(たけし)医師の聞き書き p112
 治療一辺倒だった私の考えを一変させる患者さんに出会った。私が当直をしていたときである。結核手術で肺がつぶれ、肺機能が低下していた60歳代の男性が、肺炎を起こして緊急入院してきた。こういう状態だと、抗生物質の投与や肺炎の治療だけでは回復が難しい。そこで私は人工呼吸をつけて肺炎を治療し、肺炎が治った後で人工呼吸器を外そうと考えた。
 静岡で人工呼吸器で治した患者さんはまだいなかったから、延命に血道をあげていた私は、この患者さんが第一号になるはずだと燃えていたのだ。当時はこの症状で生きて退院するのはむつかしく、病院でそのまま亡くなるのが普通だったのに、気管を切開して管を入れ、吸引機で痰さえとれば生きていられるまで回復させたのだから、私としても得意満面だった。その後、ずっと外来で診てきたのだが、2年ほど経ったある日、肺炎を起こしてふたたび入院した。そのとき、いきなりこう言われたのだ。
「(気管チューブを)全部はずしてくれ」
   私は「この管を外したら、痰が溜まって亡くなってしまう。そんなことはできない」と説得したが、患者さんは毅然(きぜん)として翻(ひるがえ)さなかった。
「お前が若くて一生懸命だったから我慢してきたが、もういい加減にしてくれ。このまま生きていても家族に迷惑をかけるだけだし、生きていることに未練はない。親しい友人はみんなシベリアで死んだ。あの世に行ったら会えるかも知れない。あの世で会いたいが、かといって自殺はしたくない。頼むから自然に逝かせてくれ」
「我慢していた」と言われたときは本当にショックだった。
 私の説得には耳をかさず、最後には「外さないと飛び降りる」とまで言われたのだからどうにもならなかった。
 私はどうせ呼吸器を外したら痰がからんで苦しくなるから考えも変わるだろう、その時はまた管を入れ直せばいいと思ってので、「今だったら戻せるから、もう一回、挿管してみないか」と言い続けたが、彼は最後まで「いらない、自然に最後の時を過ごさしてくれ」と拒み続け、数日後に亡くなった。
 延命よりもはるかに強い欲求があることに気づかされ、私は人工呼吸器をつけたことがよかったのかどうか悩んだ。それに、我慢させていたなんて、私は何をやっていたんだ。私が治療したのは何の意味もなかったのかと、私は自問し続けた。医者が患者の命を救いたいと最善を尽くしても、それは医者の自己満足に過ぎないこともある。そのことを、この男性は体を張って教えてくれたのだと思う。
 このことで、自分たちがやっている医療への視点が変わらざるを得なかった。すぐに何かが変わったわけではないが、より患者の視点に立つようになったと思う。希望があれば、できるだけ告知をするようになったのも、その頃からである。(中略)p223

 日本の医療者は科学的思考の合理性一辺倒だから、あいまいなナラテイブ( narrative )よりも、数値化できるエビデンス( evidence )の方が信じやすいのだろう。数値化できて再現性があるものだけが真実で、それ以外はこの世に存在しないんだとでも思っているのだろうか。
 緩和ケアからナラテイブをはずして、エビデンスのみを導入しようとした動きも、こうした背景があるからだ。しかし、緩和ケアとは、人の一生という物語を患者から受け止め、医療にどんな手助けができるかを判断することであり、ナラテイブがすべてなのである。
 たとえば、私が静岡(県立がんセンター)で「気管チューブを全部外せ」と言われたケース(症例)。シベリア抑留や結核の闘病生活といった患者の個人史が、「挿管なんて無駄だ」と言わせたのだから、これはナラテイブである。これに対して、私が気管切開して人工呼吸器につなぎ、痰を取れば予後が延びると言ったのはエビデンスである。しかし、患者さんから、個人のナラテイブにエビデンスが対立したら意味がないということを明言されたわけだ。(後略)
 学生時代、目の前の現実の問題点の解決を求める中で、幸いにも善き師に出遇い仏教の世界に導かれた。仏教の内容と同時に師の人間性にも惹かれたのが学びの継続につながったと思われます。仏教に出遇って、医学の依って立つ理性の科学的思考の限界ということを知らされました。知らされてみて、現代の日本の公教育が科学的思考・計算的思考の偏重でなされていることに気付かされます。その教育の先には仏教のいう「餓鬼・畜生」を育てる教育になってなかっただろうか、と自分の内省を含めて思わせしめられることです。知的にしっかりすれば人格性も善くなると思い込み、楽天的に考えていたのです。公教育に任せすぎた結果なのでしょう。人格の形成は家庭でしっかりと教育しなければならなかったことだったのです。
 科学的思考は物事のカラクリの把握には強みを発揮するが、「人間とは?」、「人生とは?」という、大きな領域、白黒のはっきりしない領域、未知なる領域を持つものの全体的な把握には限界があるということです。理性や知性の分際に気付く必要があるということにおいて哲学・宗教はなくてはならないものであると知らされることです。

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