9月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)

 仏教では<今><ここ>という事を大事にします。私が身を置くところは、「今、ここ」しかない。過去や未来は頭で考える中のことであるといいう事です。禅の言葉に「随処に主となる」があります。いつどこにあっても、如何なる場合でも何ものにも束縛されず(執われを超えて)、真実の自己(自分になりきって)として行動し、力の限り生きていくならば、何ごとにおいても、いつ如何なるところにおいても、外界の渦に巻き込まれたり、翻弄(ほんろう)されること無く、そのとき、その場になりきって自由・自在の働きが出来るということです。
 「今、ここ」を現前の事実、私の現実と言います。私の現実は時にはうまく願い事がかなって、いわゆる「有頂天」という事も一時的にありますが、多くはなかなか受け取れない、悩ましい現実が次から次に押し寄せてきます。そのために悩ましい現実が解決するだろう夢を、明日や未来に描き、願うのです。そのような場合は「こんな私ではいけない、もう少しましな私にならなければ………」と健気(けなげ)に前向きに生きようとするのです。我々の分別は思い通りにことが運ばないのは私の周囲の外の条件が自分に味方していないからだと、責任を外の事柄に責任転嫁する傾向が強いのです。
 多くの人は自分の「幸福・不幸は自分を取り巻く、外の条件によって決まる」と考えると思います。仏教に出遇うまでは、私もそれしかないと確信に近い思いをもっていました。仏教の教えを学ぶうちに、人間の幸・不幸を決めるのはその人の外の条件(状況)ではないことに気付くようになりました。同時に、実際の具体的な事象をいろいろと聞いたり、実際に具体的な人と接点をもち、その生きざまの相(すがた)、その人格を通して仏教の教えの確かさを感得するようになりました。
 我々の心に苦悩をもたらすのは「思い」と」現実」の間にある差であると理解されます。人間は思いの先に夢を描こうとします。一般には、<夢>と<現実>といいますが、現実は嫌なもの、不完全なものだから、思い通りに行くことを夢見るのです。現実よりも夢の方がよいと考えますが、夢は頭の中の観念でしかありません。
 仏教の智慧の視点、「縁起の法」では私という存在はガンジス河の砂の数ほどの因や縁との関係性の中で支えられ、生かされ、願われて有らしめられているのです。そして一刹那ごとに生滅を繰り返しており、固定した「我」はなく「無我」であると存在の真実を見抜かれているのです。
 その刹那・刹那に展開されている現実こそ、この宇宙のいのち、法爾自然 [1]の仏のいのちの世界と知らなくてはなりません。わたしたちは、今、このままの現実(無数の因や縁によって生かされている、支えられている現実)を嫌って、頭の中に自我意識が作り上げた観念・妄想をあたかも美しい真実のように思って夢を追いかけていますが、それは、高嶺に理想の造花を咲かせようとしているのです。そんな花はすぐに色褪せます。自分の現実に根を張ってない根なし草のようなものに似ているのです。風や水に押し流されるように周囲の状況に振り回されて行くのです。
 振り回されて状況は、自分の拠(よ)って立っている場に愚痴を言っている現象に出てきます。小賢しさの都合に合わないといって、自分の置かれている場、状況、時代、その他諸々の外の条件に、運が悪い、だれだれが協力してくれない、めぐりあわせが悪い、等々に不満を感じて愚痴を言っているのではないでしょうか。宇宙のいのちと一体(時間的、空間的無量の因や縁との関係性で存在する)の関係性で動く現実をちっぽけな自分の思いの枠に合わせようとするのが無理、不自然なのです。
 われわれの目はいつも外を向いています。こうなりたい、ああなりたいといって、現実に身の事実そのものには立っていません。こうあるべきであるとか、こうなりたい、ああなりたいと、外ばっかりを向いています。そう思っている「私とはいったい何か?」、といって、そこに呼び返す。思考の方向を外から内へ向ける(内観)。それが方向転換ということです。これが仏教の智慧の世界です。
 浄土往生という言葉がありますが、浄土往生ということは、浄土があってそこに往生するのではない。往生が浄土のはたらいていることを示す言葉なのです。つまり、視点の立場が変わるということ、私の思いから見るという視点から、仏の智慧の視点から見る。執われの自我意識から見るのではなく、ちょっぴり距離を置いて全体を冷静に客観視する方向に大きく変わるということです。肉眼で外を見る視点で自分を外観する立場から、がらりと転回して仏の智慧の光(無量光)に照らされて全体像(見る自分、見られる自分を含めて)を陰(かげ)日向(ひなた)なく見る方向転換です。そんなことできるかと言うでしょうが、これが仏の悟り、仏の智慧の視点と教えられていることです。
 私が「こうなりたい」、「ああなりたい」と言ってはいるが私はどこから来て(なぜ生まれて)、どこに行こうとしているのか、という課題は多くの人が問題としてきた哲学的・宗教的課題です。そんなこと考えても答えは出ない、「生まれてきた以上は、利用できるものを何でも利用して、人生を楽しまなければ損だ」と考えているのでしょうか。この思考の延長線上は唯物論的虚無の中に沈むか、うつ状態にならざるを得ないと言われています。
 仏の智慧で見抜かれた本当の私になると「私は私で良かった」と言える世界に導かれるのです。その世界への方向性は道元禅師の「仏道を習うとは自己を習うなり。自己を習うというは自己を忘るるなり。自己を忘るるとは万法に証せらるるなり」の「万法に証せらるるなり」が私になりきる道なのです。自分に与えられた場、状況の中で、生かされていることを知る智慧で気付く、私の役割、使命、仏から頂いた仕事を果たすことが私になりきり、私の使命を生ききることのできる道なのです。そしてこの世で仕事が終わった時、仏が仏の世界、浄土に迎え取ってくれるのです。仏に出遇うものは自然と仏へお任せを、「今、ここ」で生きる安心を感得できるのです。
 師より頂いた言葉、「あなたがしかるべき場所で、しかるべき役割を演ずるということは、今までお育て頂いたことへの報恩行ですよ」の言葉が私の目を覚まさせるものでした。師の教えに沿えたかどうかは分かりませんが……。
 「私は私で良かった」と言う表現は、世俗的な「居直り」と仏の悟りの「存在の満足(足るを知る)」とどう違うのか? それは発言者の心根のところに「感謝と懺悔 [2]」を伴っているかどうかでしょうか。

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