10月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)
人気漫画(?)「黒子のバスケ」を巡る脅迫事件で、○▽◎◇被告(36)に実刑判決。(8月21日).びっくりするような客観的な分析と文章構成力、そして言語感覚(『被告の最終意見陳述』から)
「社会的存在」と「生きる屍」
人間はどうやって「社会的存在」になるのでしょうか? 端的に申し上げますと、物心がついた時に「安心」しているかどうかで全てが決まります。この「安心」は昨今にメディア上で濫用されている「安心」という言葉が指すそれとは次元が違うものです。自分がこれから申し上げようとしているのは「人間が生きる力の源」とでも表現すべきものです。
乳幼児期に両親もしくはそれに相当する養育者に適切に世話をされれば、子供は「安心」を持つことができます。例えば子供が転んで泣いたとします。母親はすぐに子供に駆け寄って「痛いの痛いの飛んで行けーっ!」と言って子供を慰めながら、すりむいた膝の手当をしてあげます。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できます。これが「感情の共有」です。子供は「痛い」という言葉の意味を理解できて初めて母親から「転んだら痛いから走らないようにしなさい」と注意された意味が理解できます。そして「注意を守ろう」と考えるようになります。これが「規範の共有」です。さらに注意を守れば実際に転びません。「痛い」という不快感を回避できます。これで規範に従った対価に「安心」を得ることができます。さらに「痛い」という不快感を母親が取り除いてくれたことにより、子供は被保護感を持ち「安心」をさらに得ることができます。この「感情を共有しているから規範を共有でき、規範を共有でき、規範に従った対価として『安心』を得る」というリサイクルの積み重ねがしつけです。このしつけを経て、子供の心の中に「社会的存在」となる基礎ができ上がります。(中略)
この両親から与えられて来た感情と規範を「果たして正しかったのか?」と自問自答し、様々な心理的再検討を行うのが思春期です。自己の定義づけや立ち位置に納得できた時にアイデンティティが確立され成人となり「社会的存在」として完成します。
このプロセスが上手く行かなかった人間が「生ける屍」です。これも転んだ子供でたとえます。子供が泣いていても母親は知らん顔をしていたとします。すると子供はその不快感が「痛い」と表現するものだと理解できず「痛い」という言葉の意味の理解が曖昧になり「感情の共有」ができません。さらに母親から「転ぶから走るな!」と怒鳴られて叩かれても、その意味を理解できません。母親に怒鳴られたり、叩かれるのが嫌だから守るのであって、内容を理解して守っているのではありません。さらに「痛い」という不快感を取り除いてくれなかったことにより、子供は被保護感と「安心」を得ることができません。母親の言葉も信用できなくなります。感情と規範と安心がつながらずバラバラです。そのせいで自分が生きている実感をあまり持てなくなります。
幼稚園や小学校に進んでも「感情の共有」がないから、同じ日本語を喋っていてもあまり通じ合っていません。ですから同級生や教師との関係性の中で作られる「自分はこういう人間なんだ」という自己像を上手く作れません。これが自分が生きている実感をさらに希薄化させます。また規範がよく分からないので人となじめません。ある程度の年齢になれば頭で規範を理解できますが、規範を守った対価の「安心」を理解できません。規範は常に強制されるものであり、対価のない義務です。さらに保護者の内在化も起こってないので常に不安です。また普通の人なら何でもないような出来事にも深く傷つき、立ち直りも非常に遅いです。このように常に萎縮しているので、ますます人や社会とつながれなくなり「社会的存在」からは遠くなります。
地獄だった小学校の6年間
自分は言葉を発するのが非常に遅く、3歳頃まで言葉を発せず、無言でよだれをダラダラと垂らしながら焦点の定まらぬ目で中空を眺めて座っているだけの子供でした。両親は自分が知的障害者だと確信して病院に自分を連れて行きましたが「異常なし」とのつれない診断を受けました。乳幼児期の時点で自分が何らかの脳機能的欠陥を持っていて「感情・規範・安心」のサイクルを上手く理解できなかった可能性が高いと思っています。
そのまま小学校に進学して物凄くいじめられました。これは「感情の共有」が上手く行っていなかった自分の変な子ぶりが招いた事態だったと今にして思います。当時は原因も分からず、ひたすらつらいだけでした。両親に助けを求めましたが、基本的に放置されました。担任教師も状況を知りながら、何もしてくれませんでした。ここで形成が不充分だった「安心」が致命的に毀損してしまい、強烈な対人恐怖と対社会恐怖を抱えるようになりました。
また両親や教師など大人に対して決定的な不信感を抱くようになりました。それで「規範の共有」も上手く行かず「両親や先生に怒られるから守る」という典型的な外圧型の規範遵守人間になりました。小1・2の時の担任教師が異常な暴力教師でした。何に激昂するか子供だった自分には全く見当がつかず、ビンタをされるのが嫌だった自分は必死に担任教師の顔色を伺いました。これが習い性になってしまい両親を含む全ての大人の顔色を伺い、それから自分の行動を決めるようになりました。つまり自分の意志を持たないようにしていたのです。
自分にとって努力とは報いのない我慢であり義務でした。努力と対価としての勝利や夢の実現がつながっていませんでした。
自分は運動神経がとても悪い子供でした。小1の時の運動会に徒競走は8人中ビリでした。母親はビリだった自分を詰(なじ)りました。翌年の小2の運動会では8人中3位でした。自分は喜び勇んで結果を報告しましたが、母親は無反応でした。その翌年の小3の運動会で、やる気を失くした自分は再びビリになりました。母親はもちろんビリだった自分を詰(なじ)りました。徒競走に限らず、両親はいつもよい結果を無視し、悪い結果には怒りました。自分にとって努力とは怒られるなどの災禍を回避するための行為であり、努力の先に報いがあるとは思いもしませんでした。(後略)
上の記録を読んで、親子の関係、感情・言葉・意味・規範の共有、教育の大事さを教えられます。
また思い出されたのが、ヘレンケラーがサリバン先生の教育を受ける課程で、最初は動物のしつけを受けるような感じで受け取っていたのが、「物には言葉(名前)がついている」という概念、意味の世界に目覚めたとき、動物ではなく人間としての歩みが始まり、人間の世界に眼が開かれていったということです。
間柄によって成り立つこの世の人間世界から、宇宙中(無量寿・無量光)のものと関係する存在(縁起の法)としての間柄に分別知を超えて目覚めることを悟り、仏の智慧というのだろう。そして、そのことへの目覚め、気づきを促す言葉の根源が「南無阿弥陀仏」ではないだろうか。「南無阿弥陀仏」という名前の仏に成られた因縁(生起本末)を聞き開いていくのが仏法を学ぶということであろう。 |