11月のご案内(B.E. Buddhist era 仏暦2558)

 医学生であったころから、医師になって数年の間、外科や内科、脳外科、整形外科と細分化していった専門を究めて、知識を増やした専門医が、集まって一緒になって、一人の患者を診察して、その所見を再統合すれば人間の全体をカバーできる、と思っていました。
 その後、医師としての経験を40年以上してきて、思うことは、人間全体を診るということの難しさです。多くの患者は専門医で治療を受ければ間に合うでしょうが、複数の病気や、心の領域との関連疾患を持つ患者は、全人的に統合して診察することが難しいと思います。それを統合する医師が現実的にはいないのではないかという思いです。そういう思いは多くの医師の共通の認識でしょうか。次のような動きが展開されつつあるとの記事が出ていました。
 2025年(注1)を迎えて最も医師に直接的な影響を与える問題は、疾病構造の変化です。複数の慢性疾患を持つ高齢者が患者の中心となり、総合診療のニーズが高まることでしょう。 厚生労働省の「専門医の在り方に関する検討会」は、内科や外科など従来からある「基本領域専門医」(18領域)に、総合医・総合診療医を追加して19領域とする方向に意見がかたまりつつあります。
 総合医と総合診療医のどちらの名称を採用するかについては現在、議論を重ねているところですが、地域住民への健康教育や校医など幅広い役割を担ってもらうことを想定すると、総合医のほうが適切ではないかという意見があります。今後、総合医が1つの専門医として扱われることになる可能性が高いと思います。
 総合医については、旧来の内科専門医とどう違うかと聞かれることがあります。確かに、両者の領域はオーバーラップする部分が多くありますが総合医はより広い領域を対象にすることが検討されています。
  注1:2025年はいわゆる団塊に世代が80歳になる頃です。
 頭の中で考えて、細分化した部分を全部集めれば、全体になる、と普通は思います。それが科学的な思考で、各パーツを集めて統合して全体にする、という発想です、工業製品はそれでよいのでしょうが……。人間の心の領域は未知なる部分が圧倒的に多く、一人の心を持つ人間を、部品を集めて再統合するという発想では、人間全体を把握するのには非常な困難を伴うのです。しかしながら、科学に準拠する医学はそれをやろうとしています。そして人間全体を科学的思考で把握できるという傲慢さの中に入り込み、謙虚さを失っています。

「宗教抜きの科学は愚かであり、科学抜きの宗教は盲目である。」
Science without religion is lame, religion without science is blind.(A .・アインシュタイン)

 以上のような現況の中で、仏教を学ぶ者として気付かされることがあります。それは「言葉」の待つ宿命みたいなものです。
 言葉は事象の全体の一部を切り取り命名して概念化するという性質があります(膝とか下腿部、大腿部、足、臀部など)。言葉を聞けばすぐにそれに付随した意味を感得できます。しかし、月の本体を指さす指のようなものが「言葉」であって、月という言葉は月そのものではありません。切り取った一部を種々に名前を付けて、その部分を分かったつもりになるという欠点をもっています。言葉には意味が付属し、その言葉をつなぎ合わせて自分なりの概念を組み立てます。
 月とか太陽という言葉で概念としての月や太陽をイメージできます。言葉は物を生産する(頭のなかにイメージを作り出す)という働きがあるのです。
 言葉なしに人間は生きることは困難です。動物的「ヒト」としては生きることはできるかも知れませんが。言葉は一方では人間の思考を縛るという一面もあります。
 「言葉を鏡に自己を知る」と題された次の文章があります。私たちは時に言葉に縛られるという問題も起こりますが、それ以前に物事を把握認識するために言葉が必要です。手持ちの言葉が少ないために、モノや現象や概念を対象化したり共有することがうまくできず、今の自分の気持ちや身や心の状態を整理できていないなと思う場面があります。したがって自分の苦悩の自覚ができにくいために、課題がはっきりしません。また、自分が苦しんでいることさえ認識できにくいために、SOSをどう出せばいいか分からないこともあるようです。
 私たちは、表現するためには言葉が必要です。まずちゃんと見て、見たものを把握し理解するためには、状況や仕組みを表す言葉をある程度知っていなければ困難です。そして、それをできるだけ伝わりやすい形に表現するために、さらに言葉を選ぶことが必要です。また、出遇った言葉や表現が自分の状況を言い当ててくれる(ああ、こういうことだったのだと)ことがあります。「経教(きょうきょう)はこれを喩(たと)うるに鏡のごとし」といわれますように、言葉や表現に出遇うことが自分に出遇う事になります。
「今、教育の現場では……」真城義磨著 真宗大谷派難波別院 pp60-61 2014年4月
 言葉は人間になるためにはなくてはならないものです。ヘレンケラーがサリバン先生から、言葉を教えられて、劇的は変化を遂げた話(動物的存在から人間への成長)、本当かどうか不明だそうですが、インドのオオカミに育てられた二人の子供のその後の展開、などでそれを知ることができます。しかし、一方で言葉に縛られるという欠点も避けられないものでした。
 それは全体の中の一部分を切り取る、切り取って名前を付ける。私という人間を、頭、首、胸、腹、心臓、腎臓などと名前を付けて区別をしていきます。そうすると各部分が別々に存在するように思考していきます。そして部分(部品)を集めて人間全体になると思考しがちです。
 生物学実験でウズラとニワトリの脳移植実験があります。受精卵が発育して杯組織の時、臓器に分化する前に、脳になる部分をウズラからニワトリに移植して、ウズラの脳を持つひよこが誕生したのです。鳴き声はウズラの脳に支配された鳴き声であったのですが、生後10日ぐらいで脳炎で死亡しています。死因はニワトリのリンパ球から脳(ウズラ由来)が、異物(自分ではない、非自己)として攻撃されて炎症を起こして、脳炎で昏睡状態になり死亡したのでした。人間を理解する時、部分を集めて全体ではなく、全体の一部を(言葉で)切り取っているという分際を認識することの大切さを知らされます。

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